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【福岡市】姪浜城は鎮西探題だったのか

福岡市西区の愛宕に「姪浜城」があったと言われています。


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▲ 愛宕神社の南側参道近くにある「岩井屋」というお餅屋の裏山が「姪浜城」があったと言われている場所です。

※ ちなみに、先日紹介したケーブルカーがあった場所もこの場所です。


その姪浜城は鎮西探題だったのではないかという説があります。

鎮西探題とは鎌倉時代に幕府が九州を統括するために設置していた出先機関です。要は「鎌倉幕府九州支所」のような感じですね。

元寇でモンゴル軍が2回攻めてきて、2回とも奇跡的に防衛する事ができました。鎌倉幕府はおそらく3回目があるだろうと予測していて、今度攻められたらホントヤバイ!ということで九州の防備に力を入れていました。

でも九州の武将たちは自分たちの所領(自分が管理している土地)を守るという意識はあっても、国そのものを防衛するという意識はやっぱり薄かったようで、いつまたモンゴル軍が攻めてくるかもしれないという状況なのに、九州の防備そっちのけで わざわざ鎌倉まで出向いて訴訟をしたり意見を言いにいったりしていました。

鎌倉幕府は「九州の防備に集中しとけや!!」と突っぱねる・・・かと思いきや、「ちょ、、、マジ、九州の防備に集中しといてほしいなぁ・・・いや、まあ、、、話を聞かないわけじゃないよ、、、汗」というスタンス。実はあまり強くも言えない事情があったのです。

というのも、土地を各地の武将に恩賞として与えまくっていたので、もう与える土地が無くなってしまっていたのです。しかも、攻めてくる敵がモンゴル軍となれば、仮にモンゴル軍を撃退したとしても幕府はモンゴル軍から土地をGETできるわけではありません。なので九州の武将にとってはモンゴル軍を倒したとしても恩賞がもらえず、ただ単に消耗する不毛な戦いになるかもしれないという不安と不満があったのです。

なので、鎌倉幕府は九州に行政、司法、軍事を管理する鎮西探題を設置しました。鎌倉まで直接来られても困るし、とりあえずここで話を聞こうという感じでしょうか。もしかしたら九州の武将勢を監視するという意味合いもあったのかもしれませんね。


その鎮西探題が愛宕神社近くにあった姪浜城だという説があります。

しかし、近年の調査で博多の祇園周辺で鎮西探題を管理していた北条家の家紋のついたものが発掘されていることから、鎮西探題は祇園付近にあったという説がほぼ確定しているそうです。


▲ 姪浜城址に行ってみると山頂付近は妙に開けた平らな土地になっていて、もともと何かがあったことを思わせます。

江戸時代頃までは瓦がたくさん出土していたそうですが、みんなが持って帰るので無くなってしまったそうです。(※ 「福岡歴史探訪〈西区編〉」 より)

木が生い茂っていて周りを見渡すことができませんが、きちんと整備してあったら海の方まできれいに見えるのではないかと思います。

もしかしたら鎮西探題の「姪浜出張所」的なものがあって海を監視していたのかもしれませんね。自分が鎮西探題を任されたとしたら たぶん海を見渡せる場所にそういう施設を作るかなぁ。

【参考文献】
Wikipedia鎮西探題
福岡の城-16探題城

福岡歴史探訪〈西区編〉 (歴史探訪シリーズ)
柳 猛直
海鳥社
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【こぼればなし】

雑誌などの「編集後記」が好きでよく読みます。編集者のパーソナリティがチラッと見えたり、面白い話が書かれたりしていて楽しいです。そういうちょっとした話を書く場所があったらいいな、ということで記事下のこの場所に「こぼればなし」として記事と関連したこと、まったく関係ないことなどのミニコラムのように書いてみようかと思います。書いたり書かなかったり不定期になると思います。

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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