【佐賀】日本初の実用反射炉「築地反射炉跡」
佐賀市の長瀬町に日本初の実用反射炉である「築地反射炉跡」があります。
▲ 佐賀市の長瀬町の日新小学校。
▲ 日新小学校敷地周辺に幕末の1850年代に反射炉がありました。
反射炉とは金属を溶かすための設備で鉄製大砲を製造するために作られたものです。
▲ 広場の一角に煉瓦造りの反射炉の模型と24ポンドカノン砲の模型が展示されています。
▲ 佐賀藩は幕府から長崎港の警備を任命されていましたが、海外との実力の差を感じていました。
そのため外国人技師を雇って軍艦や大砲の製造を行いたいと幕府に提案しましたが受け入れられず、佐賀藩独自で様々な技術開発に着手しました。
製鉄の技術は昔からありましたが、大砲に耐えられる強度のものを作るためにはより純度の高い鉄が必要でした。
そこでオランダの大砲製造技術書を佐賀藩出身の蘭方医 伊東玄朴に翻訳させ、それをもとにより純度の高い鉄を生成できる反射炉の建造が開始されました。
▲ 煉瓦造りの反射炉の模型は高さ3メートルほどですが、実際のものはさらに大きかったようです。
約2年にわたる試行錯誤の後、実用的な大砲が作れるようになりその後、量産が進められました。
▲ そのことを聞きつけた幕府は品川の台場に設置するための大砲を佐賀藩に作らせ、会場防備の強化をはかりました。
▲ その後、戊辰戦争の際には佐賀藩の作ったアームストロング砲が活躍し、旧幕府軍に壊滅的な打撃を加えたと言われています。
▲ あまり気づかれていませんが、佐賀駅の前にも反射炉のレプリカが展示されています。
▲ ちなみに福岡の中洲にも福岡藩精錬所があり、反射炉が作られていたと言われています。
精錬所では機械や蒸気機関、ガラス製品の研究などが行われており、のちの福岡の産業技術の基礎を築いたとされています。→ 中洲にあった福岡藩の理化学研究所