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【福岡の絵葉書】高杉晋作も滞在した平尾山荘

福岡市中央区の平尾5丁目に山荘公園という公園があります。


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▲ 場所はこちらです。


▲ 公園の入口には「野村望東尼山荘跡」と書かれてた碑があります。


▲ 公園を奥に進むと銅像が建てられています。


▲ 野村望東尼(のむらぼうとうに、もしくは のむらもとに)の銅像です。

野村望東尼は幕末期の歌人です。

福岡藩士の浦野重右衛門勝幸の娘として生まれ、同じく福岡藩士の野村新三郎清貫の妻となりました。

望東尼は福岡の歌人、大隈言道(おおくまことみち)の門人となり、歌の才能を発揮しました。

夫婦の間には4人の子がいましたが全て幼少期に亡くなっていて、野村新三郎清貫の先妻との子が3人いましたが、その長男も自害して亡くなっています。

さらに夫も亡くなったことで、剃髪して尼となりました。


▲ そうして隠棲したのがこの場所にあった平尾山荘です。現在の建物は復元されたもので、3代目の建物だそうです。


▲ 昔の平尾山荘の様子。

現在とは違い、山のなかにひっそりとあったそうです。

文久元年(1861年)、望東尼は大阪に滞在していた師 大隈言道のもとを訪ねました。

その際に京都にも行っており、国、幕府の現状を見聞きして勤王思想(幕府を倒して天皇中心の新しい国家を作ったほうがよいという思想)が芽生えたと言われています。


▲ 現在でも残っている平尾山荘の井戸

その後、福岡に戻ってから平野国臣、中村円太、月形洗蔵、早川養敬などの福岡の勤王思想を持つ藩士と関わりを持つようになっていきます。


▲ 当時山の中にひっそりとあった望東尼の荘は密会や隠家として最適で、勤王の志士たちにこの場所を使わせていたそうです。

長州藩の高杉晋作も長州藩内で立場が危うくなった時にここに逃げてきて10日ほど滞在したと言われています。

しかし、そうした彼女の行動は福岡藩からは よく思われず、玄界灘の姫島に流されてしまいます。


▲ 望東尼自らが記した姫島の獄舎の様子。

姫島では、ある程度 行動の自由はあったそうですが、生活に必要な物品は島民から恵んでもらったものでまかなっていたのだそうです。

望東尼が姫島に流されたことを知った高杉晋作は福岡藩士に頼んで望東尼を下関に脱出させました。

高杉晋作はそのすぐ後に病気で亡くなり、望東尼も臨終に立ち会ったと言われています。

高杉晋作の有名な辞世の句、

おもしろきこともなき世におもしろく

というものがありますが、その下の句に

すみなすものは心なりけり

とつけたのは望東尼だと言われています。

残念ながら望東尼自身も その数カ月後に明治維新を目にすることとなく亡くなっています。


▲ その後、平尾山荘は荒れ果てた状態になっていたそうですが、明治に入ってから再建され、現在では公園として整備されています。


▲ 山荘の横には小さな資料館もあり、色々と展示してありました。

【参考文献】
野村望東尼の生涯
Wikipedia野村望東尼

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ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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