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明治43年まで天神のド真ん中を横切っていた巨大な堀

明治43年まで、天神のド真ん中を「肥前堀」とよばれる福岡城の お堀が横切っていました。(※ 地図は「古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み」【海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編】より引用)

▲ 現在の地図に当てはめるとこのような感じになります。

渡辺通りの1.5倍ほどの幅がある巨大なお堀だったようです。

▲ なので、渡辺通りの天神バスセンター前あたりにはこれぐらいの幅の お堀が貫いていたと考えられます。

しかし、このお堀、なぜ「肥前堀」という名前なのでしょうか??

「肥前」とは佐賀県から長崎県一帯を指します。

なぜ福岡に肥前という名前が存在しているのでしょうか?

話は福岡城が作られる以前にまでさかのぼります。

関が原の戦いで石田三成を徳川家康が破り、徳川が天下統一をはたしました。(※ 画像はWikipedia 関ヶ原の戦い より)

▲ 佐賀藩の藩祖、鍋島直茂(※ Wikipedia 鍋島直茂 より)

その際、福岡のおとなりの佐賀藩(肥前)は徳川家康に対向し、石田三成を味方していました。

徳川家康が勝利してから、佐賀藩は歯向かったことを徳川家康に謝罪しましたが、なかなか許してもらえません。

▲ 福岡藩の藩祖、黒田官兵衛(如水・孝高)(※ Wikipedia 黒田孝高 より)

そこで佐賀藩は、徳川家康に味方して功績を上げ高く評価されていた福岡藩に頼んで、何とか徳川家康に許してもらえるようにお願いできないかと頼みました。

福岡藩の方からそのことを伝えると佐賀藩は許され、お家断絶は免れました。

その お礼として福岡城を作るときに お堀の工事を佐賀藩が請け負い、その お堀の名前が「肥前堀」となったのです。

肥前堀は その後、明治43年に産業博覧会開催のために埋め立てられ、現在のような形になりました。

お堀の名前ひとつでも その背景には色んなヒストリーがあるものですね。

【参考文献】
古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み(海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編)
・福岡歴史探訪 中央区編(柳 猛直/海鳥社)

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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