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【大名】加藤清正の魂が生き続けている場所

福岡市中央区大名にあるJT福岡ビルの前に大きな老木があるのをご存知でしょうか?


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▲ 場所はこのあたり。オフィスビルが立ち並ぶ地域の一角にあります。

実はこの老木は熊本藩 初代藩主 加藤清正にゆかりのある木だと言われています。

▲ 加藤清正は1561年、現在の名古屋市あたりに生まれました。(※画像はWikipedia 加藤清正より)

豊臣秀吉につかえており、さまざまな功績を認められて熊本の国を与えられました。

▲ 入国後、清正は熊本城の建築にとりかかります。

その時に活躍したのが飯田覚兵衛という人物。

覚兵衛は清正とは幼なじみの間柄でした。

二人は幼少の頃「勝ったほうが君主となり、負けたほうが家臣として一生仕えることにしよう」と言って剣道の試合をしました。

その結果、清正が勝ち、覚兵衛が家臣となることになりました。

その約束は守られ、覚兵衛は清正の家臣として活躍していました。

熊本城築城の時にも覚兵衛は大活躍しており、180mもある三の丸の百間石垣は覚兵衛の功績であると言われていて、その周辺は飯田覚兵衛の名前を冠して「飯田丸」とよばれています。

▲ 建築が終わると、清正は熊本城の敷地内にたくさんの銀杏を植えました。

そのため、熊本城は別名「銀杏城」とも言われています。

清正の死後、三男・忠広が跡を継ぎ、覚兵衛も引き続き加藤家に仕えていました。

しかし、1632年、加藤家は改易(つまり熊本の殿様から降ろされた)となってしまいます。

理由は諸説あるようですが、陰謀や策略によるものであると言われています。

君主を失ってしまった覚兵衛でしたが、加藤家と親密な間柄にあった福岡の黒田家に客分として迎えられることになりました。

▲ 福岡藩分限帳集成で確認してみると、覚兵衛は2500石(年収およそ1億5000万円程度か)を与えられていましたので かなりいい待遇です。

しかし、福岡に来てからも覚兵衛の清正をリスペクトする気持ちは変わりません。

覚兵衛は清正を偲んで、熊本城から一本の銀杏の苗木を持ってきて屋敷の庭に植えました。(※ 地図は「古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み」【海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編】より引用)

▲ それが現在でも残り続けているこちらの銀杏の木なのです。

▲ こちらの写真は冬の様子。

樹齢400年以上の老木ですので老齢化が進んでおり、いつ枯れてしまってもおかしくない状態らしいです。

▲ 加藤清正の生まれ変わりとも言えるような貴重な銀杏の木ですのでなんとか元気になってほしいものですね。

▲ ちなみに、熊本城おもてなし武将隊の飯田覚兵衛は たいへんイケメンとなっております。

【参考文献リスト】
Wikipedia 飯田直景
Wikipedia 加藤清正
熊本城公式ホームページ 大銀杏
熊本城公式ホームページ 熊本城ビュースポット
西日本新聞ワードBOX 飯田屋敷の大銀杏
・古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み(海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編)
・福岡藩分限帳集成(海鳥社 福岡地方史研究会 編)

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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