【今泉】小姓から黒田姓を名乗ることを許されるまでに出世した黒田源兵衛の墓がある盛福寺
小姓から黒田姓を名乗ることを許されるまでに出世した黒田源兵衛の墓がある盛福寺に行ってみました。
[map addr=”福岡県福岡市中央区今泉2丁目1-56″]
▲ 場所はこちら。
▲ 近代的な建築のお寺です。手前が大きな100円パーキングになっていますので、一見お寺とわかりにくいです。
▲ お寺の前の案内板にはこう書かれていました。
盛福寺は黒田源兵衛(木村源兵衛)を弔うために建立された寺で、1651(慶安4)年に桜坂から現在の今泉に移転しました。
黒田源兵衛は大友氏の流れを汲み、代々豊後杵築城の城代を勤めていました。大友氏の衰退により、流浪の身となりましたが、黒田長政に見いだされ、黒田忠之公の小姓として愛されました。
1638(寛永15)年の島原の乱における軍功により、黒田の姓を称することを許され、後に6千石に加増を受け、家老となりました。その後、なぜか忠之公により追放されますが、再び呼び戻されるということがあり、1647(正保4年)8月8日に自害しました。これをひどく悲しんだ忠之公は盛福寺を建立し、黒田源兵衛の法号である楊柳院から山号を楊柳山としました。
黒田源兵衛の墓は、五輪(空・風・火・水・地)を表していると伝えられています。
写真は黒田源兵衛の位牌です。
▲ 元々、盛福寺は桜坂の桜ケ峯神社の場所にあったのだとか。
先ほどの案内板には「1647(正保4年)8月8日に自害しました。」とありましたが、これは黒田源兵衛の勘違いによるものだったのだそうです。
黒田忠之の意に背いて長尾に追放されていたのですが、その際には帯刀(刀を持ち歩くこと)も禁じられていたそうです。
その後、忠之がもう許してやるという意味で、持つことを禁じられていた刀を贈ったわけですが、源兵衛は「この刀で切腹せよ」というメッセージだと勘違いして自害してしまったのだそうです。
▲ 写真の一番右の石塔が黒田源兵衛の墓。おそらく、元々は墓石の左下に置かれている栗のような石が上に乗っかっていたのだと思います。
大変武勇に優れた人物だったそうなので、源兵衛が自害してしまったのは周囲の人も残念がったことでしょうね…。
【参考サイト】
・楊柳山不遠院 盛福寺 お寺めぐりの友
・今泉天神通りの3か寺
・吉田家伝録メモ4(増年) 資料メモログ