【大手門/今泉】空誉上人はなぜ処刑されたのか?
中央区の大手門の浄念寺に江戸時代初期に黒田忠之によって処刑された空誉上人を祀る空誉堂があります。
▲ 浄念寺入り口。
[map addr=”福岡県福岡市中央区大手門2丁目2−6”]
▲ 場所はこちらです。
▲ 本堂の右側にある、
▲ こちらのお堂が空誉堂です。
空誉上人と黒田家の関わりは古く、黒田官兵衛(如水)が中津に入城した時から同行しています。
黒田家は関ヶ原の合戦の後、合戦に勝利した徳川家から功績を認められて筑前(福岡)に領地をもらい、空誉上人は現在のアクロス天神の向かい側の場所に智福寺を与えられました。
空誉上人は文禄・慶長の役の際にも黒田家とともに朝鮮半島に渡っています。
いっぽう、慶長11年(1606年)、黒田家の家臣であった後藤又兵衛は黒田長政との確執から福岡を離れ、各地を転々としていました。
この当時の状況は徳川家と豊臣家との対立がまだ激しかったのですが、慶長19年(1614年)の大坂の役の際に後藤又兵衛はこともあろうに、豊臣家の大阪城に入城しました。
元黒田家の家臣であった後藤又兵衛が大阪城に入ったということは対立する徳川家と近しい黒田家にとっては非常に都合が悪いことでした。
案の定、徳川家からは豊臣家と内通しているのではとの疑いがかけられてしまいました。
そこで後藤又兵衛と仲の良かった空誉上人を大阪城に向かわせ、福岡に帰ってくるよう説得を試みました。
しかし後藤又兵衛は福岡に帰ることを拒否しました。
説得に失敗した空誉上人は黒田忠之からの怒りをかってしまい、さらに豊臣家と内通しているとの疑いがかけられ処刑されることになりました。
おそらく豊臣家と本当に内通していないと徳川家に対してアピールするために利用されたような形ではないかと思います。
▲ 空誉上人は非常に残忍な方法で処刑されたと言われ、その処刑場となった天神中央公園の場所には「福岡藩刑場跡」の碑が建てられています。
空誉上人の亡骸はしばらく放置され埋葬することさえ許されなかったそうです。
▲ それに心を痛めた弟子たちが夜中にこっそり亡骸を運び、浄念寺に空誉堂を建ててその死を慰めたと言われています。
▲ ちなみに空誉上人の智福寺は廃寺となり、その後水鏡天満宮が建てられました。
実は空誉上人が処刑された理由にはもう一つの説があります。
▲ 今泉にある安養院。
[map addr=”福岡県福岡市中央区今泉2丁目1−78”]
▲ 場所はこちら。
この安養院には殿様が鷹狩をした後に立ち寄る休息の場所として使われていたそうですが、黒田忠之が立ち寄った際に接待をした少年を気に入り小姓として差し出すように命令しました。
小姓は男色の相手をさせられることも多かったのだとか・・・。
その少年を小姓として差し出すことを空誉上人が拒否したために怒りをかって処刑されたと言われています。
▲ どちらの説が本当なのかは不明ですが、空誉堂がある浄念寺の案内には「後藤又兵衛を説得できなかったため」という説が書かれていました。