江戸時代 福岡の船乗り孫太郎の体験が壮絶すぎる その2
バンジャルマシンの奴隷市場で孫太郎(まごたろう)を買おうとしていたのは原住民の首領と中国人商人でした。
孫太郎は原住民の首領が儀式の生贄として自分を品定めしていることを知り、なんとか中国人商人の方に買ってもらうように中国人商人に向かってジェスチャーをしました。
それを察知したのかどうかはわかりませんが、結果的に中国人商人が孫太郎を買い、中国人商人に仕えることになりました。
【タイコン官の元での生活】
中国人商人はタイコン官とよばれる裕福な大商人でした。
タイコン官は真面目に奉仕する孫太郎を家族同様に扱っていました。
孫太郎はタイコン官の元で言葉を習得し、文化、習慣なども吸収していきました。
また、孫太郎はタイコン官に仕えて各地を訪れており、ボルネオ島の原住民と接触したり、人食いワニに遭遇したりなど様々な体験をしています。
【望郷の念】
孫太郎がタイコン官の元に入って6年もの月日が経過していました。
一応幸せに暮らしていた孫太郎でしたが、やはり いつも思うのは故郷のこと。
ある日、孫太郎はタイコン官の母にそのことを告白します。
自分の身の上、故郷のこと、残してきた家族のことなどを伝えると、タイコン官の母親は大変同情し涙しました。
そのことを母親から聞いたタイコン官は孫太郎はあくまでも自分が買ったものだと言いつつも、孫太郎のことを同情し、日本へ帰ることを許可しました。
【帰国】
それから約半年後、孫太郎は長崎行きのオランダ船に便乗する形で帰国の途につきます。
無事到着したら服の袖に手紙を書いて送ると約束をしたといいます。
孫太郎はタイコン官に帰国の許可をもらうためではあったものの、一度帰国して家族の無事を確認したら必ず戻ってくると告げています。
しかし、タイコン官は日本は遠いから一度帰ると戻ってこれないだろう とあきらめて永久的な帰国を許可したといいます。
タイコン官は孫太郎に服や剣、木綿など抱えきれないほどの土産を持たせ、涙を流しながらいつまでも船を見送ったそうです。
船は2ヶ月をかけ各地に寄港しつつ、6月16日、ついに長崎に到着します。
【長崎奉行所での聴取】
孫太郎は長崎奉行所で聴取を受けました。
このころはキリスト教が禁止されていたため、外国でキリスト教徒になっていないかを確認するために踏み絵の手続きも行われました。
しかし、孫太郎は決して悪い扱いは受けていなかったようです。
長崎滞在中も一応牢屋に入れられていたものの(おそらく「脱藩者」という扱いだったものと思われる)、高い身分の人が利用する牢を使わされていましたし、幕府や福岡藩からは褒美まで受け取っています。
一応、建前上はオランダ人が孫太郎を助けて連れてきたという事になっていたようですので、オランダに対する面目という側面もあったのかもしれません。
その後、福岡藩の駕籠にのせられて故郷の唐泊浦へと戻りました。
孫太郎が唐泊浦を発ってから、じつに9年もの月日が経過していました。
【家族と対面】
孫太郎は家に到着し兄と対面しました。
兄は孫太郎の顔をみると言葉が出ないほど驚き、喜んだといいます。
そして、仏壇に自分の位牌があったのを見て これまでの日々や亡くなっていった仲間の事を思い出し、涙したそうです。
【孫太郎のその後】
孫太郎はその後も福岡藩の監視のもとに置かれます。
船に乗ることや旅に出ること、さらにタイコン官への手紙などもすべて禁止されています。
その後、学者たちが外国の事を聞くために孫太郎の元を訪ねてきて、それをまとめたものが出版されています。
それが冒頭で紹介した「筑前船漂流記」です。
孫太郎がその後どのような人生を送ったのか、文献を調べてみてもほとんど書かれていません。
唐孫さん(からまご?)と呼ばれていたこと、1807年に58歳で亡くなったこと以外には何もわかりません。
壮絶な経験をしているとはいえ、やはり軽輩の船乗りだったため、その後に関しては記録がなく謎です。
もしかしてこっそり福岡を脱藩して再びタイコン官の元へ旅立ったのでは?などと考えてみましたが、亡くなる1年前に学者が孫太郎の元を訪れて外国のことを尋ねているので、再び外国へ行ったということはないようです。
それにしても、これほど面白い話(「面白い」という表現は ちょっと語弊はありますが)があるのに なぜ全く知られていないのかが不思議です。
地域として もっとアピールしてもいいのではないかと思いますがどうでしょうか。
ある意味漂流してアメリカに行ったジョン万次郎よりスゴイですよね。
【ちなみに】
▲ 古地図の中に「東林寺」というお寺があります。(※古地図は東林禅寺の案内看板より)
▲ 東林禅寺という名前になっているようですが、現在でも同じ場所にあります。
▲ お墓か何かが残っていないかと思い、確認しに行ってみましたがそれらしきものは見つけることができませんでした。
ただ、おそらく孫太郎もこのお寺の檀家になっていたのではないかと思いますので、もし宗門人別帳(今で言う住民票のようなもの)などが残っていれば、孫太郎の名前が書かれているかもしれません。
【ちなみに その2(妄想の域)】
孫太郎が漂流した船は伊勢丸という船でしたが、伊勢丸の船頭の名前は「青柳十右衛門(当時18歳)」という人物でした。
青柳十右衛門は船が漂着して原住民に捕まり、牢屋に入れられた際に病死してしまいます。
▲ 孫太郎に関して何かヒントがないかと宮浦(唐泊)周辺をウロウロしていて、お腹がすいたので ある海鮮系の定食屋に入りました。
おそらく家族経営で古さは感じさせるものの とても雰囲気のあるいいお店で、店内をキョロキョロしていましたら食品衛生責任者(=お店のご主人)の名前が 青柳さん だったんですよね。
もしかしたら何らかの関係があるのでは?と思ったのですが さすがにこれは妄想の域です。※聞く勇気もありません。
でも たぶん、それほど多い苗字ではありませんし。。。はたして。。。
【参考文献】
・東京海洋大学附属図書館 筑前船漂流記
・Wikipedia 孫太郎
・石井研堂「日本漂流譚」の試み
・東林禅寺の案内看板