【まとめ】世界遺産に登録された三重津海軍所跡についてわかりやす〜く解説してみた
世界遺産に登録された三重津海軍所跡。よくわからないという人のためにわかりやす〜く解説してみました。
▲ 2015年夏に明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録された三重津海軍所跡。
わたくしも先日行ってきました。 → 見えないのに世界遺産になってしまった佐賀県の三重津海軍所跡を見に行ってみた
▲ 世界遺産になっているくらいなのでなんとなくスゴイんだろな・・・でも正直よくわからん!ということで行くことをためらっている人も多いのではないかと思います。
かくいう わたくしも実は三重津海軍所跡に行くまでは少しそんな感じがしていました。
▲ 実際行ってみても「見えない世界遺産」言われているだけあって、確かにちょっとわかりにくい・・・。
▲ 見えない世界遺産が見えるようになる「VR SCOPE」も準備されていますし、行ってみるとじゅうぶん楽しめるのですが、なんとなく三重津海軍所跡に行くのに二の足を踏んでる人もいるのではないかと思います。
そんなわけで今回は三重津海軍所がなぜ作られたのか、どれぐらいスゴイことなのか、三重津海軍所はその後どうなったのかなどについてわかりやす〜く解説してみたいと思います。
その前に下記の三重津海軍所・佐賀藩関係の記事を読んでおくとさらに楽しめるかと思いますのでこちらもぜひ!
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・見えないのに世界遺産になってしまった佐賀県の三重津海軍所跡を見に行ってみた
・佐賀城本丸歴史館で幕末の佐賀藩についてみっちり学んできた
・江戸から続く佐賀の中心地 佐賀城の見どころ
・佐賀城下に残る幕末〜明治の歴史遺産をめぐる歴史散歩
▲ 三重津海軍所は幕末に佐賀藩が設立した洋式海軍の拠点です。
何をしたところかというと、船を製造したり、船の操縦について学んだり、海軍の訓練をしたりする場所です。
佐賀と船・・・あまりピンと来ないですね・・・。
佐賀ってそんなに港町みたいなイメージもありませんし・・・。
▲ では「長崎と船」だとどうでしょう?
長崎は港町としても有名ですしこれなら納得ですね。
実は佐賀藩は古くから長崎との関わりが深かったのです。
なぜ関わりが深かったのかというと、佐賀藩は福岡藩と一年交代で長崎の警備をしていたためです。
▲ え?なんで佐賀と福岡がそんな遠い長崎を警備していたの??と疑問に思った人も多いと思います。
これは幕府から「やれ!」と命令されていたからです。
そう命令されたのは寛永19(1642)年のことです。
▲ この時期、幕府は島原の乱でキリスト教徒が反乱を起こして大変な目にあっていましたので、島原の乱を鎮圧した後、キリスト教を禁止しました。
そのため、キリスト教を持ち込む可能性があるポルトガル船が長崎港に入ること拒否しました。
▲ でもそんなことをしたらポルトガルが怒って復讐に来るかもしれない・・・そんなわけで長崎を警備しなければヤバい!と考えたのです。
▲ そこで長崎港から近かった佐賀藩と福岡藩が抜擢されたというわけです。
もちろん幕府が言うので拒否はできません。
▲ それ以来、百数十年にわたって長崎警備を続けていたのですが、江戸時代の泰平の世、長崎は何事も無く平穏な日々が過ぎていったのです。
何も起きないけど、幕府からの命令なので莫大な費用をかけて長崎警備を行わなければならない・・・・。
たぶんどうせ何も起きないから警備の人数を減らしておこう・・・。
泰平の世に幕府も佐賀藩も気が緩んでしまっていました。
▲ そんな中、大変な事件が起きてしまいます・・・・。
フェートン号事件です。
イギリスの軍艦が長崎港にやってきて、日本にいたオランダ人を人質に物資を要求した事件です。
これが起きたことで佐賀藩は警備の不始末の責任を取らされ、佐賀藩の藩士数人が切腹、当時佐賀藩の藩主だった鍋島斉直も100日間の閉門(謹慎)を命じられてしまいます。
さらに運が悪いことに江戸の藩邸が火災で焼失・・・。
▲ その後、「シーボルト台風」と呼ばれる巨大台風が直撃。
これらのことが追い打ちをかけて佐賀藩の財政状況は非常に苦しいものになっていきます。
▲ そんな大変な状況の中で鍋島斉直から後を継いだのが鍋島直正です。
鍋島直正が藩主になってからは質素倹約、リストラ、報酬カットなど徹底的な財政改革が行われていきます。
また、米の販売だけでなく有田焼やろうそくを売るなど経営多角化にも取り組み、収入の面でも改革を行いました。
▲ 長崎警備で一度やらかしていますし、隣国の清もアヘン戦争でイギリスに負けたという情報も入ってきていましたので、何としても軍事力をつけて長崎はしっかり守らなければ!
佐賀藩は幕府に協力を求めますが幕府の方も非常に厳しい財政状況・・・。
結局協力を得ることはできず、佐賀藩は独自で軍備の強化を行うことになりました。
▲ 築地反射炉を作って、鉄製の大砲を鋳造したり、「精煉方」という今でいう理化学研究所のようなものを作って蒸気機関の開発などを行いました。
▲ その後、ペリーの黒船が浦賀沖にやってくると、幕府もいよいよヤバイ!と危機感をつのらせ、国を守るための航海技術や蘭学を学ぶ長崎海軍伝習所を出島の横に開きました。
▲ この長崎海軍伝習所にはたくさんの佐賀藩士が学びましたが、その中のひとりに佐野常民がいました。
佐野常民は大坂にあった緒方洪庵の適塾などで蘭学(西洋医学)を学び、佐賀に戻ってからは精煉方の代表を務めていた人物です。
長崎海軍伝習所は江戸の築地に軍艦操練所が作られたことで閉鎖、その後、佐野常民が中心となって佐賀藩に三重津海軍所が創設されました。
長崎海軍伝習所でやっていたことを佐賀藩で独自にやろうと考えたわけです。
三重津海軍所では長崎海軍伝習所で学んだ洋式船の操縦技術を佐賀藩士に教えたり、西洋の技術を導入したドックの建設、船を修理するための材料の製造なども行われました。
▲ 佐賀藩は鍋島直正の財政改革がうまくいったこともあり、外国から船を購入したりもしています。
▲ それらの洋式船を修理・整備するために、三重津海軍所にはドックが造られました。
西洋では主に石やレンガを利用して造られるドックが、ここでは日本の伝統技術を活かし、木や土を使って造られているところに、試行錯誤しながら西洋技術の獲得に取り組んだ当時のものづくりの姿を見ることができます。
▲ さらに、軍艦を買って運用するだけでなく、佐賀藩では独自で実用蒸気船を作ってしまいます。
これは幕府でさえ成し遂げられなかったことで、藩レベルで作れてしまったことは異例。
その後も三重津海軍所から戊辰戦争へ出兵する船が出されたりなど、歴史的に非常に重要な拠点となりました。
▲ 今回世界遺産に登録されたのはそういった背景があるからだったんですね!(写真:佐賀市教育委員会 提供)
明治維新後、三重津海軍所は閉鎖、その跡地は商船学校となり多くの学生たちが学びました。
現在では歴史公園として憩いの場になっていますが、その下には現存する国内最古のドライドックなどが眠っています。
▲ いかがだったでしょうか?三重津海軍所、実はかなりスゴイですよね!世界遺産に登録されるのも納得です。
今回記事にしたことは三重津海軍所跡のスゴさのほんの一部。
実際に行って佐野常民記念館の展示を見たり、VR SCOPEを体験したりするとさらにいろんなことがわかって面白いですよ。
皆さんもぜひ三重津海軍所跡の魅力を体験してみてください!
三重津海軍所跡特設サイト
http://mietsu-sekaiisan.jp/
提供:佐賀県