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三菱マテリアル九州工場横の渡れない橋から歴史を感じた

福岡県の苅田港にある三菱マテリアル九州工場を見に行った際に、工場横で「豊国橋」という不思議な橋を見つけました。


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▲ 緑色の矢印の部分です。工場西側の三菱マテリアル社宅付近にありました。

▲ 昭和三五年五月一五日とあります。

▲ 一見、普通の橋のように思えますが・・・

▲ このような感じで塞がれていて渡れなくなっています。

手前側がコンクリートで塞がていて、突き当りはフェンスと植木でブロックされています。

▲ なんとも珍妙です。

▲ 橋の右側をみてみると時代を感じさせる石積みの堤防になっていました。

▲ そうかと思えば奥にはとんでもない工場が鎮座していておもしろい光景です。


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▲ 衛星写真をみてみるとその工場の規模の大きさがよくわかります。

この新旧チャンプルー感といい、渡れない橋といい、とっても気になる。。。ということで三菱マテリアルの歴史を探ってみました。

三菱マテリアルの

工場は苅田出身の実業家・小畑秀吉が佐賀資本を誘致し、1918年に豊国セメント苅田工場として操業開始した。塩業の村だった苅田は、これを契機に工業化への道を歩み始めた。(中略)1973年に三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントが合併して三菱鉱業セメントと改称、(中略)1990年、三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し、三菱マテリアルに改称した。(ガゾーン 三菱マテリアル九州工場 より引用)

とあります。

▲ まず、先の引用文から「豊国橋」という名前の由来が「豊国セメント」にあったことがわかりました。

▲ それで「豊国セメント」と検索しようとすると、予測変換に「豊国セメント 機関車」とでてきました。

「豊国セメント 機関車」の検索結果にWikipediaの「苅田駅」が出てきたので読んでみると、

当駅から苅田港に面する豊国セメント苅田工場(現・三菱マテリアル九州工場)までの専用線があった。(中略)豊国セメントの専用線跡はその大部分が舗装された道路になっており(中略)1972年(昭和47年)9月18日に専用線で使用していた5号機関車を教材用として苅田小学校に寄贈、現在も学校敷地内に静態保存されている。(Wikipedia 苅田駅 より引用)

とありました。

▲ 地図をみてみると苅田駅から苅田港を結べる道路はどうもこのラインがあやしい気がします。

苅田小学校の北東部にある緩やかなカーブがどうも線路っぽいです。

線路は直角にカーブが作れませんのでこのようなカーブを描くことがよくあります。

それに、苅田小学校の横を線路が走っていたとしたら、使用していた機関車を苅田小学校の寄贈するという点もうなずけます。

「豊国セメント 機関車」の検索結果の保存車豊国セメントNo5に実際に使用されていた機関車の車体の写真があったのですが、少々小型の機関車のようで、

▲ どうも豊国橋の横幅にピッタリなような気がするんですよね。

豊国橋は機関車用に使用されていた橋のような気がしてなりません。

「豊国橋 豊国セメント」とか「豊国橋 三菱マテリアル」などで色々と検索してみますがそれらしいものが出てきません。

あきらめずに、キーワードを変えたりして豊国セメント周りを色々と探っていると、下記の動画を見つけました。

▲ (※音量が大きいので注意です) 0:20付近で「以前この「豊国橋」を渡って貨物列車が行き来いしていた」と解説されていました!

やっぱり豊国橋は機関車の廃線跡だったんですね。納得です。

動画を見る限りでは機関車の路線も先程の地図で予測したものと違わないようでした。

▲ 今はひっそりとしていますが、昔は盛んに機関車が行き来していたことでしょう。

▲ 日本の経済発展を見つめ、文字通り「支えて」きたこの小さな橋がなんだか偉大に思えます。

これはぜひ残してもらいたい産業遺産ですね。

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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