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宮本武蔵が福岡の大名あたりで就職活動?!

おしゃれなアパレルショップなどが立ち並ぶ福岡市中央区の大名「東小姓町通り」エリア。


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▲ 実はこの辺りで宮本武蔵が就職活動をしていたという逸話を耳にしました。

古地図でみる 福岡市中央区大名の気になる曲がり角」で紹介した曲がり角にあるジョーキュウ醤油の店内に「宮本武蔵が大名一丁目に住んでいた」という掲示板が設置されていました。

掲示板には

寛永十五、六年(一六三八 – 九年)旧・東小姓町(ジョーキュー醤油から国体道路へ抜ける二筋目左側)の福岡藩士 小川権大夫の家に、五十五 – 六才の頃住み、黒田藩の子弟に兵法を教えていた。

と書かれていました。

これは知りませんでした!こんな頻繁に通っていたところに宮本武蔵がいたなんて。

▲ しかし、なぜ宮本武蔵は福岡にいたのでしょうかね。(※画像はWikipedia「宮本武蔵」より)

Wikipediaでこの時期の宮本武蔵を調べてみると

寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津城主小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡城主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。

と書かれていました。

宮本武蔵は50歳代中盤にも関わらず、島原の乱に出兵して すねに石があたってケガをしたという文献を読んだことがあります。

おそらくその直後ぐらいに福岡にやってきたものと思われます。

▲ 宮本武蔵は東小姓町にあった小河権太夫の剣道場に滞在していたと言われています。

この時期の古地図をみてみると写真右側の角が空白になっていますので、もしかしたらここに道場があったのかもしれません。

宮本武蔵と福岡藩(藩主の黒田家)は昔から関わりがあり、

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い(※Wikipedia「宮本武蔵」より引用)

というつながりがあることなどから、福岡藩に仕官するべく福岡の地にやってきたのだと思われます。

まあ いわば 就職活動をしにやってきたような感じですね。

▲ 宮本武蔵はきちっとした身なりで、福岡の藩士たちに剣術を教え、福岡藩に雇ってもらうべくアピールしていた・・・

かと思いきや、宮本武蔵が滞在していた小河家の子孫の記録によると、髪は整えないし爪も切らない、さらに風呂にも入らないという有り様だったそうです。

黒田の殿様は宮本武蔵の剣豪っぷりを気に入っていましたので雇うつもり満々だったのですが、福岡藩の家老たちは、武蔵が「髪は整えないし爪も切らない、さらに風呂にも入らない」という変わり者だったからでしょうか、絶対にやめたほうがいいと反対したそうです。

結局殿様が折れて、宮本武蔵は福岡藩には仕官させないということに決められました。

その腹いせにかどうかは わかりませんが、福岡でも凄腕の剣客である丸尾六左エ門と試合をし、ボコボコに圧勝して福岡を去っていったのだそうです。

▲ もし宮本武蔵が福岡藩に雇われていたら また違った歴史が生まれていたかもしれませんね。

まあ このブログ的には、雇われていないからこそ面白いネタになるのかもしれませんが 笑

【参考文献リスト】
丹治峯均筆記
宮本武蔵

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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