【船】戦時中、水木しげるも乗船した仮装巡洋艦信濃丸
先日、西新の古本市にて日本郵船株式会社 信濃丸の絵葉書を見つけました。
▲ こちらの絵葉書です。300円にてゲット。おそらく明治〜大正頃のものです。
「日本郵船株式会社 信濃丸」とあり、下記のような記述が。
感状
假装巡洋艦信濃丸
明治三十八年五月中敵艦隊ノ北上ニ對シ連日連夜哨戒勤務ニ服シ同月二十七日佛曉早クモ敵艦隊ヲ發見シ其確實迅速ナル警報ハ聯合艦隊ノ作戰ヲ利セシコト少ナカラス其功績大ナリトス仍テ茲ニ感状ヲ授與スルモノナリ
明治三十八年六月二十日
聯合艦隊司令長官東郷平八郎
要約すると
・信濃丸は貨客船に仮装した巡洋艦であった
・1905年(明治38年)5月にロシア船の監視にあったていた
・5月27日にバルチック艦隊を発見し警報を発令たことで日本海海戦の日本勝利に貢献した
という内容です。
▲ この信濃丸、調べてみるととても波瀾万丈な船歴を持っているようです。
元々は日本郵船のシアトル航路用の貨客船として作られたものでした。
しかし、日露戦争中には仮装巡洋艦として使用され、上記のように日本海海戦の日本勝利に貢献しました。
日露戦争後は仮装巡洋艦としての役目を終え、再び貨客船として使われるようになりました。
その後、神戸〜基隆(台湾北部にある省轄市)の貨客船となりました。
1913年には孫文が台湾から日本に信濃丸で亡命したそうです。
その後はサケやマス漁の漁船として使用されました。
太平洋戦争時には再び軍に徴用され輸送船として使われました。
歩兵第229連隊の兵士だった漫画家の水木しげるはパラオからラバウルに行く時に信濃丸に乗船したそうで、触るだけで鉄が崩れるほどボロボロになっていたと語っているそうです。
その後、再び漁船になりますが、終戦時にはシベリアからの引揚船として使われました。
そして1951年に解体されました。
日露戦争、太平洋戦争、亡命、引揚など様々な歴史をくぐり抜けてきたスゴイ船だったのですね。
【参考サイト】
・Wikipedia信濃丸
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