【熊本】今でも銃弾が出土する日本最大の激戦区 田原坂
熊本の田原坂は日本最後にして最大の内戦、西南戦争の激戦区となった場所です。
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▲ 場所はこちらです。
▲ 本当にこの場所が激戦区になっていたのかと思うほど穏やかでごくごく普通の坂です。
▲ しかし、この場所が描かれた絵図には官軍と薩軍が激しく銃撃戦をおこなう様子が描かれています。(※絵図は田原坂資料館で配布されていたパンフレットより)
江戸幕府から明治新政府の時代になり、徴兵令が出され国民皆兵を目指して農民も商人もみんな満20歳以上の男子は徴兵される事が決められました。
江戸時代の武士にとって「戦える」ということはある種特権であったので、その特権がなくなったことで武士たちは明治新政府への不満をつのらせていました。誰でも戦に参加できるのなら士族の存在意義って何?ということになりますからプライドを傷つけられたのです。
その不満をそらすために西郷隆盛は士族たちを外国に出兵させてはどうかと考えていましたが、国内の経済を安定させることを重視していた明治新政府に押されて辞職し鹿児島に帰ってきていました。(※上野公園の西郷隆盛像は鹿児島に帰って来た時の姿をモデルにしているそうです)
また、さらに追い打ちをかけるように士族が刀を持ってはいけないと決められたり(→ 廃刀令)、それまで幕府からもらっていた給料を廃止(→ 秩禄処分)されたりして不満はついに爆発。佐賀県の「佐賀の乱」、熊本県の「神風連の乱」、福岡県の「秋月の乱」、山口県の「萩の乱」という形で不満を持った士族が地方で反乱を起こしはじめました。
そんななかで明治新政府にとって薩摩(鹿児島)は頭の痛い存在でした。
というのも、薩摩は日本最強の兵力をもっていましたし、やはり西郷隆盛というカリスマの存在は大きく、日本のなかでも独立国家のような状態になっていました。
西郷隆盛は士族が新しい世の中に適応できるようにと願って士族を中心とした学校「私学校」を設立し、農業を教えたり、西郷自身も生徒と一緒になって開墾をおこなったりしていましたが、明治新政府にとっては武士たちが集まって何かをやろうとしているのではないかという心配の種でした。
なので、明治新政府は鹿児島の草牟田にあった陸軍の火薬庫から大量の弾薬を大阪に移してしまおうと考えました。とりあえず弾薬さえおさえておけば反乱を起こすことはないだろうと考えたのでしょうね。
でも、その弾薬は薩摩の士族が自分たちで作ったり買ったりしたものでしたので、それを奪われるのは たまったものじゃありません。
これまでのいろいろな不満が一気に爆発し、私学校の生徒たちは火薬庫を襲撃。弾薬を奪い返しました。
これがきっかけで今こそ決起すべし!と薩摩の士族たちは明治新政府への反乱を開始し、西南戦争へと発展しました。
西郷隆盛は私学校の生徒たちが火薬庫を襲撃したことを聞いて「しまった!」と思ったそうですが、もう後には引けず、鹿児島の士族たちと運命をともにすることを決意したと言われています。
▲ 新政府軍(官軍)は福岡の天神にある勝立寺に集結しました。
▲ ここに仮本営を築き南下していきました。
▲ 九州中部〜南部の各地で官軍と薩摩軍がぶつかり、この田原坂は西南戦争でもっとも激しい戦いとなった場所です。
▲ 当時田原坂にあった蔵が再現されています。弾痕だらけになっていて戦いの激しさを物語っています。
▲ パネルに戦地の実際の写真が載っていました。
▲ 建物が銃で撃たれてボロボロになっています。
▲ 田原坂の周辺は田畑になっていますが、今でも西南戦争の時の銃弾が土の中から出てくるそうです。
▲ 銃弾と銃弾が空中でぶつかり合ってできた「かちあい玉」もたくさん見つかっているそうで、とんでもない数の銃弾が両軍から撃ち合われたことがわかります。(※写真は田原坂資料館で配布されていたパンフレットより)
▲ 田原坂にはおみやげ屋もあるのですが、ここには実際に発見された銃弾が飾られていました。
お店の方が言うには、昔は当たり前のようにたくさんの銃弾が土の中から出てきていたそうですが、色んな人が見つけに来るので最近はだいぶ少なくなってきたそうです。
▲ 西南の役戦没者慰霊之碑もありました。戦没者の名前のパネルが掲示してあります。西南戦争でいかに多くの人が亡くなったかがよくわかります。
▲ 資料館もあります。実際に使用されたものなどがたくさん展示されています。
▲ 最終的に西南戦争は西郷隆盛の城山での自決によって鎮圧されました。
士族がプライドをかけて戦った戦争でしたが、結果的に士族以外の兵力でも軍隊が成り立つということを しっかりと証明する形になってしまったのは なんとも皮肉なことです。
【参考文献】
・Wikipedia西南戦争