【福岡市】ダムに水没してしまう神社を曲淵城跡に移動して建てられた山神社
曲淵ダム横の山の上に「山神社」という神社があります。
大きな地図で見る
▲ 場所はこちらです。
▲ 263号線から一本脇にそれた小道に入ると鳥居が見えます。
▲ 「山神社」の名前の通り、山の中にあります。とても急な階段を3ブロックほどクリアしなければたどり着けません・・・。
▲ この神社はもともと現在ダムになっている場所にあったらしく、水没してしまう予定だったそうですが、現在の場所に移されて今でも信仰されています。
▲ 「聖域」という言葉がピッタリな雰囲気です。
この場所は1500年代にあった曲淵城の城跡なのだそうです。
山深〜い場所にある城だったのですね。
その昔、ある冬の日に この近くで鍛冶屋をしていた甚五兵衛の家にお坊さんが訪ねてきて泊めて欲しいと頼んだそうです。
甚五兵衛の妻は泊めるなと言ったそうですが、甚五兵衛は寒い冬の日に野宿をさせるわけにはいかないと お坊さんに同情し、泊めてあげました。
そのお坊さんはお礼はできないけれど、この手紙を持って糸島にあった原田氏の高祖城を訪ねて下さいと言い、去って行きました。
後日、高祖城を訪ねてみると、実はあのお坊さんが北条時頼だったということがわかり、甚五兵衛は原田氏の配下に置かれ、曲淵河内守の名をもらって曲淵城主になったという言い伝えが残されています。
▲ その後、豊臣秀吉によって原田氏が滅ぼされると、その家臣だった曲淵氏も滅亡、最終的に甚五兵衛は浪人となったとされています。
そんな背景を知ると、なんとも兵どもが夢の跡的な、諸行無常の響きある場所に思えてきます。
【参考文献】
・筑前・曲淵城
・福岡歴史探訪 (早良区編)/柳 猛直 海鳥社
【こぼればなし】
山神社入り口の鳥居には「広田弘毅書」と書かれていました。広田弘毅は書道が得意だったそうで、天神にある水鏡天満宮の鳥居の文字も広田弘毅によるものです。この山神社の鳥居もどうやら広田弘毅によるもののようです。