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明治時代の時報

1886年(明治19年)7月13日に「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」という法令が出され、標準時(日本時間)が定められました。

それまでは基準となる時間がなかったために人々がバラバラに活動することで様々な問題が起きていました。

それを改善するために導入された標準時でしたが、やはりそれまでの習慣が抜けきれず、というよりそもそも時刻を知らせるものがなかったために時間を守らない人が多かったそうです。

それを憂いた旧秋月藩士の江藤正澄が実業家の古賀男夫と発起して、時刻を知らせることを業務とする号砲会社を設立しました。

▲ 時報に使われたのはこちらの大砲。実際に使われていたものです。(※ 西公園案内看板より)

この大砲の空砲を打ち、爆音を響かせて時刻を知らせるというダイナミックなものでした。

大砲を打つ業務を任されたのは旧福岡藩士の末永巴という人物。

福岡藩分限帳(福岡藩の武士の名簿)を確認すると大西二番丁(現在の西新あたり)に住んでいた元武士で、「石火矢役」と書かれていますので、実践で大砲を扱っていた人物のようです。


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▲ 設置されたのはこの場所。現在の須崎公園のあたりです。

元々はこの場所が海岸線で、外国船監視などのために作られていた台場に置かれることとなりました。


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▲ この場所には現在でも台場の石垣が残っていて、そのままの状態で使用されています。

明治21年(1888年)7月22日から時報が開始されましたが、すぐに問題が発生します。

近所の住人から苦情が殺到したのです。

大砲からはかなりの爆音が鳴り響いていたようで「障子が破ける」「物が落ちる」などの苦情が相次ぎ、この場所での運営が難しい状態になりました。


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▲ そこで、現在西公園がある荒津山の山頂あたりに移設されました。

▲ 大砲は光雲神社本殿の裏辺りにあったと言われています。

この場所で時報を再開するのですが、また同じように音がうるさいなどの苦情が相次ぎました。


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▲ 今度は荒津山のふもとあたりにある住吉神社の境内に移動されました。

▲ こちらが現在の住吉神社の様子。

この境内のどの部分に設置されていたのかは不明ですが、苦情を避けるために海側を向けるなど工夫が施されていたそうです。

これでやっと落ち着くかと思うと、今度は聞こえないという苦情が来たそうで、なかなか苦労した様子が伺えます。

午前と正午の2回、大砲が鳴らされていましたが、寄付金や補助金で運営していたため毎日の火薬代が不足するようになっていました。

運営開始後、約一ヶ月で早くも正午の1回のみになっていたそうです。

1年半ほどは大砲を鳴らし続けますが、結局 資金不足のため中止となってしまいました。

時報がないとやはり不便であったようで、市民からの再開の声に応えて今度は福岡市運営によって再開されました。

その後、昭和6年(1931年)までの約40年間、ずっと鳴らし続けられたそうです。

▲ 住吉神社にはそのことを示す石碑が置かれています。

▲ そして、役目を終えた大砲は現在 福岡埋蔵文化財センターに保管されているそうです。

【参考文献】
歴史万華鏡
・福岡藩分限帳集成(海鳥社 福岡地方史研究会 編)
・西公園案内看板

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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