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【福岡市】馬頭観世音大菩薩

地下鉄唐人町駅の近くに馬頭観世音大菩薩の祠があります。


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▲ 「唐人町西」の交差点南側の少し裏道に入った場所にあります。(手前の小道を進む)


▲ こんなところに祠があったなんて気がつきませんでした。


▲ 中は結構きれいに手入れされていて、きちんとお世話をしている人がいるようです。


▲ 由来はこう書かれていました。

馬頭観世音大菩薩の由来

黒田藩主の御馬廻り役梶原角太夫殿に藩主の乗馬が御下げ渡しになって居たが天明三年十二月二十三日の火災に際し乗馬が焼死したので屋敷内にあつた馬頭観世音大菩薩の祠堂に合祀して祭られた処、参詣人が増して来たので町内の馬持中の人々が祭り始めた。

其の後町内に於いてひき受け堂宇を現在の場所に遷し祭祀を執行することになった。

安政四年が七十五年忌に相当るので六月二十三、二十四の両日に亘って盛大なる祭礼を催して大般若修行を行い御◯安全の祈祷をなし御守護札を配布した。◯来馬をひいて参詣する者が多くなった。

又毎年六月二十三日には此処に馬市が起ち美装した馬が晴衣装に豆絞り手拭鉢巻姿の馬子に伴はれて集まるなど盛況を極めたものであつた。

星移り年変るにつれて祭典がいささか疎遠になった。

明治初年の頃突然疫病が流行し若者達だけが大熱病に罹り多くの死亡者を出し町中は大恐慌を来したのである。町中では名僧、易学者等に尋ねたが期せづして異口同音に馬頭観世音大菩薩のたたりぢゃとの言葉であつたので大寄合をして協議した挙句、御堂を修繕し名僧を招いて大供養を施した処、不思議にも病者若者全員が俄然時を同じゆうして全快に向つたのである。

此の事に感激した若者や町民こぞつて馬頭観世音大菩薩の霊験に感銘して敬神の念を深くし毎年七月には祭典を執行するようになつた。

明治十五年は百年忌に相当したので町内で特に盛大な祭が執行された。

大正十二年八月には唐人町部中年会が発起して改築し現在の堂宇となし八月二十三日に祭典を執行して今日に及んでいる。

堂の棟木は当時境内にあつた大公孫樹が建築の為伐られたので之を使用したのである。

要約すると、

・御馬廻り役の梶原角太夫殿に藩主の馬が下げ渡しになった

・天明三年十二月二十三日の火災で馬が焼死してしまった

・その馬を、屋敷内にあった馬頭観世音大菩薩と一緒に祀ったら参詣人が増え、馬持中(馬を使って仕事をする人の組合のようなもの?)の人たちが祭り始めた

・その後、町内の管理となり現在の場所に移転、とてもにぎわった

・しかし、明治頃になると廃れていった

・疫病が流行、僧侶や易者は「これは馬頭観世音大菩薩のたたりだ!」と言った

・そこで再びきちんと祀ったところ疫病は沈静化

・以来今日でも祭典が行われている

ということのようです。


▲ 馬頭観世音大菩薩の祠の横にはちょっと珍しいものが転がっていました。


▲ 「国旗掲揚台」「昭和十七年二月十日 第八隣組」とあります。


▲ もう一方の面を見てみると「シンガポール陥落記念」と刻まれていました。

「日露」関係のものは戦役記念の碑を頻繁に見かけますが、「シンガポール」と書かれているのは珍しいかもしれません。

古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み
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ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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