福岡ではみんなが知ってるあの武士の末裔に江戸時代のことや明治維新後のこと、そして現在のことを色々聞いてみた

福岡ではみんなが知ってるあの武士の末裔に江戸時代のことや明治維新後のこと、そして現在のことを色々聞いてみました。もはや壮大なドラマを聞いているようでした。
▲ 今回の主役はこちら(写真右)。どなたかわかりますか?

▲ 長い槍を持ったこのお姿。歴史好きの人であればピンときたことでしょう。
そう、黒田藩の重鎮、母里太兵衛の二十四代目の末裔でいらっしゃる母里忠一さんです。

▲ 母里太兵衛は「〽酒は呑め呑め呑むならば」の黒田節のモデルにもなった武士で、福岡の玄関口である博多駅や西公園などにも像が建てられている福岡のシンボル的存在の人物です。

▲ 母里さんを紹介してくれたのは黒田官兵衛にまつわるポータルサイト「官兵衛の」の運営者である森さん。
「官兵衛の」でわたくしY氏と郷土史研究家の岡部定一郎さんとの対談を企画していただいた縁で知り合い、今回も一席設けてくれたというわけです。

▲ ということで早速いろいろと聞いてみたいと思います。

「母里さん、宜しくお願いします!」

「宜しくお願いします」

「まず、お名前なのですが『もり』さんと『ぼり』さんのどちらが正式な読み方なんですか?」

「これは『ぼり』が正しい読み方です。世間一般では『もりたへえ』と呼ばれていますが、これは一時期『母里(ぼり)』が『毛利(もうり)』になっていたことが影響しているんです」

「へぇ〜!そうなんですね!『毛利』の読みが『母里』に当てはめられて『もり』と言われるようになったんですね。しかしなぜ『毛利』と名乗っていた時期があるんですか?」

「母里家は建築関係に優れた家だったんですね。ある時、江戸城天守閣の石垣の修復を担当したのですが、その時に贈られた感謝状の記載が『母里』ではなく『毛利』と誤って記されていたんですね。今だったら役所に行って訂正して下さいと言えますが、当時は天下人からもらったものだから修正するわけにもいかず『毛利』と名前を変えたんです」

「なるほど、感謝状を訂正するのではなく、名前の方を変えちゃったんですね!」

「そう、だから実は母里家は江戸時代はずっと『毛利』の名を名乗っているんですよ。『母里』に戻ったのは明治維新後のことです」


「↑確かに母里家の屋敷を古地図を確認してみると『毛利』になっていますね!(絵図中央部分)」

「まあ『母里』も『毛利』もあまり変わらん、ということだったのでしょうね 笑」


「基本的な質問なのですが、母里太兵衛というのは黒田藩の中でどういう立場の人だったのですか?かなり偉い人ですよね?」

「黒田八虎という黒田藩の精鋭八人の中に入っていた人物です。勇猛果敢な武将で、しかも城持ちで禄高が一万八千石だったので福岡藩ではナンバースリーぐらいの人物と言っていいでしょうね」

「そんなナンバースリーぐらいの家柄だった母里家は明治維新後はどうなったんですか?」

「黒田藩は最後の最後まで徳川家に忠誠を誓ったことからもわかるように維新に対応するのでとても遅かったんですね。明治になってからも江戸時代の『武士のほうが偉い』という感覚が捨てきれないので武士の商いをやっても全然うまくいかないわけなんです」

「確かに商売をやるには偉そうにしててはダメですよね」

「元武士というプライドがあるからお客さんを『無礼者!!』なんて怒鳴りつけたりしてしまうんですね。そんな風に元武士は身分が高かった人ほど何をやってもうまくいかなくて没落していったんです。ところが母里家は土木工事をしたり治水工事をしたりと、お城造りの名人です。つまり普請奉行だったんですね。このことが幸いして明治維新後、母里家は左官業で代々続いていくんです」

「へぇ〜!専門分野をうまく活かして存続していったんですね!じゃあ母里さんも元々は左官業をされていたんですか??」

「そうそう、わたしもずっとセメントをこねたり土壁を塗ったりして左官業をやってましたよ。でも田中角栄の列島改造の時に大手ゼネコンが進出してくるから世の中がひっくり返って大変な時代になると思って自分のビルを建てて居酒屋に切り替えたんです」

「そのビルというのは母里家が持っていた土地にあるんですか?」


「そうです。母里家というのはかつて福岡城周辺に5軒ぐらいあったんですよ。今の野村證券の前には碑も建っています。他の母里家はみんな明治維新後、別の場所に行ってしまって今このへんで残っているのは私の家だけです」

「別の場所に行った人たちは今どこにいるんですか?」

「もう色んな所にバラバラ。県外に行ったり郊外に行ったりです」


「そういえば田川にも有名な母里さんがいらっしゃいますよね?」

「田川の方には石炭記念館の近くで『あをぎり』という料亭をしている母里家がいますね。その母里家は黒田家が筑前に来た時に直方藩の方にいった母里家です。われわれの一族から直方藩のほうに仕えた人物もいたんですよ」

「田川の母里さんはアート方面でも有名ですよね?」

「そうそう!私は柳生新影流兵法という古武道をやっていますので今でも日本刀を振り回してますけど、むこうはアートです」

「母里家の人は左官だったり、アートをやっていたり、モノづくりが上手な一族なんですね!」

「うん、そういうDNAなのかもしれませんね」

「どういうアート作品を作られているんですか?」

「鉄を溶鉱炉からドロドロ〜っと出してそのまま固めてオブジェにしたり、ドラム缶を半分に割って、それをつなぎあわせて人の形にしたり、そんな作品を作っていますよ」


「舞鶴の『あいれふ』の1階に走っているポーズのドラム缶の作品があるでしょう?あれは田川の母里家の末裔が作ったものですよ」

「おぉ〜!!ありますね〜!あれって母里家の末裔の人が作ったものだったんですね〜!!ぜんぜん知りませんでした〜!」


「母里さんは今はどういう活動をされているんですか?」

「武道を通じて青少年の育成のお手伝いをしたり、筑前福岡黒田武士顕彰会の会長をやったりいろんな活動をしています。元々は『長屋門』という居酒屋をしていたんですが、今は人に貸してボランティアのほうに専念しています。あとは柳生新影流兵法『荒津会』の会長もやっています」

「柳生新影流兵法というのは何ですか?」

「古武道になります。古い型の剣術ですね。槍もありますよ」

「やっぱり槍もあるんですね!黒田節にも出てくる日本号が有名ですもんね。福島正則から巨大な盃に入った酒を飲み干せたらこの槍を与えると言われて、母里太兵衛が見事飲み干してもらった槍ですよね。今でも母里家の所有なんですか?」

「いや、今は福岡市博物館の所蔵品になっています」

「どうして母里家は手放したんですか?」

「実は明治以降もずっと母里家にあったんですよ。でも明治の混沌とした時代に十代目の母里友諒の甥の浦上某が外に持ちだしたんです」

「え?もしかして売ってしまったんですか」

「そう、売ってしまったんです。借金のカタに質に出したんです。その後もいろんな人のところを点々とするんですが、最終的に実業家の安川敬一郎が買い取ったんです。でもこれは黒田家にあるべきだということで安川さんは大正時代に黒田家に献上したんですね。その後、黒田家から福岡市に寄贈されて現在に至ってるんです」

「へぇ〜!そんな経緯があったんですね〜!母里家には何かゆかりの品は残っていないんですか?」

「ありますよ、例えば刀とか槍とかがいくつかね。太平洋戦争の前まではもっとたくさんあったんですよ」

「それは金属供出で取られてしまったんですか?」

「いや、これは戦争に出兵する時に親が息子に持たせてやってるんです。良い刀から順に戦地に持って行ってるんですね。今残っているのは短刀とか脇差しとかの短いものばかりです」

「戦地に持って行かれた刀はその後どうなってしまったか分からないんですか?」

「うん、もう全部戦地で米軍に接収されてるんです。その後は行方知れずです」

「今残っている短刀や脇差しはどういう品なんですか?」

「古いものだと鎌倉時代のものもあります。お金に変えずに残していたのはやっぱり武士としての誇りがずっとあったからなんでしょうね」


「福岡城に旧母里太兵衛邸長屋門というものがありますが、これは母里家の所有物だったりするんですか?」

「違います。これは福岡市が所有しています。ちなみに『旧母里太兵衛邸長屋門』となっていますが、これは母里太兵衛邸のものではないんですよ。母里太兵衛の子孫が住んだ屋敷のものなんです。なので厳密には母里太兵衛邸というのは誤りなんです」


「なるほど、『母里邸』だったらOKなんですね」

「そうそう、『旧母里邸長屋門』ですね。『太兵衛』がつくと少し語弊がありますね笑」

「まあ唯一と言っていいほどの現存している藩士の家の建築物ですから少しぐらい夢がある感じのほうがいいかもですね・・・笑 福岡藩は黒田二十四騎という24人の精鋭たちがいたそうですが、その末裔の人達はどうなったんですか?」

「み〜んなバラバラ。いろんな所に行ってしまって福岡にいる人もほとんどいないですし屋敷も何も残っていません」

「意外とそんなものなんですね・・・」


「昔は天神一帯が武士の屋敷だったんですが、全部なくなってしまってます。黒田二十四騎ではないですが、唯一そのままの場所に残っているのが元飯田覚兵衛屋敷にある銀杏の木だけです」

「今のJTの場所ですね」

「そう、残っているのはあれだけ。名のある家ほど明治維新後は苦しい生活をして屋敷も売ってしまったみたいですね。昔の博多の商家にはそういう人たちの借金の借用書がたくさん残っていますよ」

「え?借金をしてたんですか?」

「やっぱり偉い立場だった人ほどプライドが邪魔をして商売をやってもうまくいかず、借金をして生活していた人も多かったんです。刀を売ったり槍を売ったり屋敷を売ったり、そうやってみんなバラバラになってしまったんですよ。博多商人に娘を嫁がせて姻戚関係を結ぶことで資金を援助してもらうという方法をとったりもしていたそうですよ」

「その点、母里家は左官業が得意分野で良かったですね」

「う〜ん、それでも大変は大変だったようですけどね」

「黒田二十四騎の末裔の人たちとの交流はあるんですか?」

「なるべく交流はするようにしています。15人ぐらいは会ったことがありますよ」

「例えばという人ですか?」

「例えば、三宅家義、林直利、衣笠景延、村田吉次、野村祐勝、後藤基次(又兵衛)・・・他にもいろいろです。各家が持っている資料を交換したりしています」

「そうなんですね!古文書みたいなものですか?」

「そうそう、お互いに知らない部分を知っていこうということで文書を見せ合ったりしています」

「殿様の黒田家との交流もあるんですか?」

「もちろんあります」


「西公園に黒田如水公と長政公を祀った光雲神社というのがありますが、そこに年に2回ほど黒田家の16代当主 黒田長高さんが参拝にいらっしゃるのでその時に会っています」

「やっぱりお殿様という感じがしますか?」

「タクシーに乗られる時に『どうぞ!』とか帰られる時には『お気をつけて!』みたいに、ついついかしこまってしまったりしますね笑 長高さんが威張っているというわけではなく思わずそんな風になってしまいます笑」

「そういう関係もDNAレベルで脈々と受け継がれているんですね笑 光雲神社でも黒田如水と長政が祀られている本殿の真正面を母里太兵衛像が守っていますよね」


「あの母里太兵衛像は誰が建てたものなんですか?」


「博多駅前にあるのは博多人形師の組合が作った銅像です」


「光雲神社にある方の銅像は約50年前に我々一族で資金を募って1000万円ぐらいをかけて作ったものなんです。そういう経緯もあってか、光雲神社の母里太兵衛像は私の顔ともよく似てるんです」


「あっ!確かによく似てますね!笑 もしかしたら再現率かなり高いかもですね!NHKドラマの『軍師官兵衛』では速水もこみちさんが母里太兵衛を演じていましたよね。速水もこみちさんは母里太兵衛に似てますかね?」

「適役だったんじゃないかと思いますよ。母里太兵衛は身長が6尺以上で180cm以上あったそうですから、背の高い速水もこみちさんはピッタリだったと思います」

「当時で180cm以上と言ったらそうとう大きいですよね?」

「平均身長も今より低かったでしょうからそれは大きく見えたでしょうね。でもそれぐらい大きくなければ あんな大きな槍を振り回すことはできなかったでしょうね」


「よく聞かれると思うのですが、やっぱり母里さんはお酒はたくさん飲めますか?」

「う〜ん、人並みですね。昔はたくさん飲んでましたけどね。母里太兵衛の命日の6月6日には墓所にお参りに行ってから親戚で集まって赤い大盃でお酒を飲む儀式をやっていますよ」

「母里家オリジナルの作法があるんですか?」

「大盃を順番に回していくんですが、ちゃんと飲み方があるんです。普通の盃だったら縁に口をつけて飲めばいいですが、五合もある大盃だと普通に飲もうとすると横からザ〜っとこぼれてしまいます。なので水面に直接口をつけて吸うようにして飲み込むんです。黒田節の元になった歌では『飲め飲め酒を 飲み込みて 日の本一のその槍を 取りこすほどに飲むならば これぞまことの黒田武士』と歌われていたんです。『飲み込みて』とはこぼれないように吸うようにして飲むことを意味しているんです」

「へぇ〜!ちゃんと意味があるんですね〜!」

「今でも代々こういう事をやってるんですよ。ご先祖様の話をしながらお酒を飲む、これが母里家流の供養ですね。最近はあまり飲めなくなってきたので少しだけ飲んで次に回しますけどね笑」

▲ ひとしきりお話を伺った後、なんと母里さん自ら福岡城の中にあった母里太兵衛の屋敷跡を案内してもらえることに。

▲ さすが築城の名人の末裔、かつ左官業を営まれていただけあってお城に関してもかなりお詳しく、いろんなお城トリビアを教えてもらいました。

▲ 福岡地方裁判所横の上ノ橋御門跡から入城。上級藩士しか通ることが許されていなかった門なのだそう。時代が時代なら近づくことさえできなかった場所なんですね・・・。


「このあたりが母里家の屋敷があった場所です」

「おぉ〜!母里太兵衛がここで暮らしていたんですね〜!」

「いや、ここに住んでいたのは奥さんや子供だけです。母里太兵衛は下屋敷の方で暮らしていたんですよ」

「え?そうなんですか?」

「裏切らないように奥さんや子供は人質のような感じで城の中に住まわされていたんですよ」

「てっきり本人がここに住んでいたのかと思いましたよ」

「本人が住んでいたのは下屋敷。どこのお城でもそういうことをやっていたんですよ。徳川幕府のシステムですね」


「この場所に母里家があったことにもちゃんと意味があるんです。お堀をよく見るとクランク状になっている場所があるでしょう?そこに福岡城からの地下水路があったんです。普請奉行だった母里家はこの地下水路を守るためにこの場所に置かれていたんですよ。とても重要な場所を任されていたんです」

▲ 石垣をバックに撮影させてもらいました。う〜ん、やっぱり絵になるなぁ!なんだか母里さんが武士に見えてきた!

▲ 母里太兵衛が生きた時代は はるか昔のことですが、こうやって子孫の方が誇りを持ってご先祖様のことを伝承されているのはなんだかステキなことですね。
自分のことを数百年後の子孫がこうやって誇りに思ってくれるだろうか・・・。名前さえ知らないんじゃないかな・・・。せめて名前ぐらいは知っていてほしいな。そうなるためにはもっと、今の何倍も頑張らなくちゃ!そんな事を考えさせられました。
ちなみに春に開催される福岡城さくらまつりでは母里さんの居合などが披露されるそうです。
武士の末裔が時代を超えて今でもお城で剣を披露しているというのは感慨深いものがありますね。


