福岡城に残る筑前竹槍一揆の刀傷
江戸時代が終わり、明治に入ったばかりの明治6年(1873年)、福岡一帯では干ばつとなり不作が続いていました。
雨が降らないことには収穫が見込めません。
そこで、人々は雨乞いを行い雨が降るのを待ちました。
そんなある日、なにやら山伝いに紅白の旗を振ったり、火を炊いたりして合図を送りあっているものがいます。
これは米の相場を伝え合うことで不正に利益を得ようとする者の仕業だということが発覚しました。
農民たちは怒って武力蜂起し、不正を行っていた裕福な商人の家を襲い、破壊しました。
明治初期の民衆の不満はそういった裕福な商人たちに対してだけではなく、明治政府に対しても大きな不満を抱えていました。
それまで民衆が築いてきた世界が明治政府によって劇的に変えられていました。
▲ 人々が親しんで大切にしてきたもの、例えば、道端に設置されていた庚申塔なども迷信であるとして数多く破壊されたといいます。(※画像はWikipedia 「庚申塔」より)
また、それまでの身分制度を完全にフラットにすることへの不満も大きく影響したといわれています。
その他にも徴兵制や地租改正による負担の増大など、さまざまな うっぷんが爆発し、怒りの矛先は裕福な商人宅の打ち壊しという側面から、福岡県庁の襲撃という形へと変わっていきました。
一揆勢は田川市南部から嘉麻市、そして穂波郡へ広がり、さらに、鞍手、宗像、糟屋郡などで勢力を増しながら福岡県庁のある福岡城へ向かいました。
一揆勢はおよそ10万人までに膨れ上がり、福岡県庁の官舎を襲い破壊しました。
当時の福岡の人口は43万人程度と言われていますので、約4人に1人が参加したことになります。
▲ 福岡城の下之橋御門にはその際の刀傷が残されています。
▲ 下之橋御門の場所はこちらです。
▲ こちらの木製の門の柱を注意深くみてみると、
▲ このような削れたような跡がたくさん残っています。
▲ この傷は筑前竹槍一揆の際のものだと言われています。
結局、一揆勢は明治政府の軍隊によって鎮圧され、約2週間におよぶ筑前竹槍一揆は終わりました。
こんな見落としてしまいそうなところにも過去の痕跡が残されているものですね。
【参考文献】
・筑前竹槍一揆(志免町ホームページ)
・筑前竹槍一揆(ちくしの散歩)