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【元寇】蒙古襲来絵詞に描かれている場所の今

鎌倉時代にモンゴル軍が日本に攻めてきた元寇の様子を描いた蒙古襲来絵詞という絵巻物があります。

▲ 教科書にも必ず出てくるこの絵です。誰でも知っている有名な絵ですね。

実は、上記の絵は「蒙古襲来絵詞」という絵巻の一部分を抜き出したものです。

▲ 蒙古襲来絵詞はこんなに長い絵巻物です。

▲ そして例のシーンはこの部分。巻物のほんの一部分だったんですね。

有名な絵以外の部分には合戦の様子だけでなく、合戦前後の様子、元軍の動きなどもイラストと文章を交えながら解説されています。

ここには福岡に現在でも残っている場所や神社が数多く描かれています。

その場所が今どうなっているのかを絵巻物と比較しながら調べてみました。(※一回目の襲来の「文永の役」に関して書いています。)

▲ まず、元軍は百道原(ももぢばる)から上陸してきたと言われています。

現在のよかとぴあ通り周辺がその場所と考えられます。

▲ その後、内陸部まで侵略を進め、赤坂山、現在の福岡城の場所に陣営を築きました。

▲ 蒙古襲来絵詞では元軍の侵略を聞きつけた武士たちが博多に集結したところから始まっています。

上の絵に描かれている鳥居は筥崎宮の鳥居です。

▲ 現在の筥崎宮。

▲ 武士たちは息の浜(現在の奈良屋町付近)に作られていた日本軍の陣営に向かっていました。

▲ 陣営には日本軍の総大将・少弐景資が待機していました。

▲ 陣営までの道中を描いた様子には松が生い茂った場所を通っている姿がみられます。

▲ これはおそらく現在の東公園あたりを描いたものではないかと思われます。

▲ 東公園周辺は現在はそんなに松林というイメージはありませんが、近世までたくさん松が生い茂った千代の松原と呼ばれる場所でした。

ですので、武士たちが向かっていた経路を考えるとこの一帯の様子を描いているのではないかと思われます。

▲ 少し離れた場所には住吉神社も描かれています。

▲ 現在の住吉神社。ここに立ち寄ったかどうかは不明ですが、もしかしたら合戦の成功を祈願しているかもしれませんね。

息の浜に陣営を築いていた総大将・少弐景資は足場の悪い赤坂付近での戦いは日本軍に不利であると考えていましたので、元軍が博多に攻めてくるのを待っていました。

▲ ところが、肥後の菊池武房が赤坂の元軍に攻撃を仕掛け、見事これを追い払いました。

▲ 元軍は赤坂から祖原に向けて逃げて行きました。

▲ 上の絵図は別府で三井資長が元軍に追い打ちをかける様子です。

▲ 祖原まで逃げていった元軍は小高くて見晴らしの良い祖原山に陣営を作りました。

元軍がドラや太鼓を打ち鳴らして士気を高める様子が描かれています。

▲ 祖原山は祖原公園として整備されていますが、今でもここだけポコッと小高くなっています。

▲ とても見晴らしが良く、確かに陣営を作るには最適な気がします。

▲ その後、再び攻めてきた元軍と日本軍は鳥飼あたりで合戦となります。

▲ その時の様子がこの有名な絵です。

たくさんの弓矢や「てつはう」が飛び交う激しい戦いだったことが想像されます。

▲ 蒙古襲来絵詞には

けうとすそハらよりとりかいかたのしほやのまつのもとにむけあハせてかせんす(元軍が麁原から来て鳥飼潟の塩屋の松の下で合戦となった。)

と書かれています。

現在、鳥飼にある塩屋橋周辺がその合戦の場所ではないかと思われます。

その鳥飼での合戦で元軍は敗走して百道原に逃げて行きました。

▲ これまでのルートをまとめると こんな感じです。

こうやって確認すると、現在の地形と蒙古襲来絵詞に描かれていることが一致してとても興味深いですね。

【参考文献】
Wikipedia 蒙古襲来絵詞
Wikipedia 元寇

「蒙古襲来絵詞」を読む
大倉 隆二
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Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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