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元寇の有名なあの絵は鳥飼

いまさら説明の必要もないと思いますが、「元寇」とは鎌倉時代にモンゴル軍が日本に攻めてきたあれです。

▲ 福岡県にはいたるところに「元寇防塁」という石垣が築かれているので、福岡人は元寇に関してはわりと身近に感じているのではないかとおもいます。(写真は Wikipedia 元寇防塁 より)

▲ そして、教科書にも必ず出てくるこの絵が有名ですね。

馬に乗った武士が血だけになりながら戦う姿が描かれており、「てつはう」という爆弾のような兵器が使われていたことがわかる絵です。(絵はWikipedia 元寇 より)

▲ 小学校の頃、「これモンゴル軍側からじゃなく日本側から飛んでね?」と思った人は私だけではないはずです。

この絵はどこなのか

モンゴル軍が上陸したであろう場所は博多湾沿岸の元寇防塁が築かれている場所や沿岸の地形を考えるとある程度特定が可能だと思います。

しかし、このモンゴル軍との合戦の様子は いったいどこなのでしょうか。

福岡県のどこかだと思いますが、非常に気になります。

▲ 周りに景色が描かれていればある程度推測できるのでしょうが、この絵は背景らしきものは松の木が1本だけです。

蒙古襲来絵詞

上記の絵は「蒙古襲来絵詞」という絵巻の一部分を抜き出したものです。

▲ 蒙古襲来絵詞はこんなに長い絵巻物なんですね。

▲ そして例のシーンはこの部分。

巻物のほんの一部分だったんですね。

▲ たくさんの文章が書かれていますのでその前後にどこを描いたものであるかのヒントがないか読んでみます。

▲ まず、この部分。

おそらく、有名なあのシーンに関する記述であろう部分がありました。

けうとすそハらよりとりかいかたのしほやのまつのもとにむけあハせてかせんす一はんにはたさしむまをいられてはねをとさるすゑなかいけ三きいたてをひむまいられてはねしところにひせんのくにの御け人しろいしの六郎みちやすこちんより大せいにてかけしにもうこのいくさひきしりそきてすそはらにあかる

なんのこっちゃわからないと思いますが、要約すると

モンゴル軍が麁原から来て鳥飼潟の塩屋の松の下で合戦となった。旗指馬が弓で射られて落馬し、季長ほか3騎も負傷した。そこに肥前の国の御家人 白石通泰たちが駆けつけてモンゴル軍と戦い、モンゴル軍は逃げていった。

ということのようです。

まず、ここに書かれている季長(すえなが)とは竹崎季長のことで、有名なあの絵の馬に乗った人物です。

▲ 彼ですね。

確かに松の下で戦っていて負傷した様子が描かれています。

▲ そして彼に弓を射ているこの3人のモンゴル兵。

これらは実は後世(一説によると江戸時代)に描き足されたものらしいです。

確かに、この3人だけ他の人物とテイストが違います。

その左側には逃げ惑うモンゴル軍の様子が描かれています。

つまり、この3人が描かれていない状態であれば上記の文章の通り、「モンゴル軍が逃げていった」時の様子だということがわかります。

鳥飼潟の塩屋

上記文章で「鳥飼潟の塩屋」という地名が出てきましたね。

「鳥飼潟」という地名も「塩屋」という地名も博多湾近辺にはありません。

ただ、ちょっと心当たりがあります。

福岡市の鳥飼に塩屋橋という橋があるのです。

私の家からヤフードームに行く際に 必ずこの橋を曲がって行くので記憶に残っていました。


大きな地図で見る

▲ ここですね。

「塩屋橋」という橋の名前に旧地名の「塩屋」が残っているという気がしてならないのですがどうなんでしょうか。

しかし「鳥飼潟」というように「潟」と付くのはなぜなんでしょうか。

「潟」とは「砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼。」です。(※三省堂 大辞林

この近辺は湖などはありませんが・・・。

▲ 上記部分の文章を読むと、

こせいはへふのつかハらよりとりかひのしほかたをおほせいになりあハむとひくをおかくるにむまひかたにはたハしてそのかたきをのハす

と記されています。

要は、

モンゴル軍が塚原から鳥飼の汐干潟を、大勢で逃げていくのを追いかけたけれども、干潟で馬が転倒してしまって逃げられてしまった。

というのです。

この記述を読んでピンときました。

「鳥飼潟」の「潟」は一般にいう「砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼。」ではなく、九州弁の「潟」、つまり「干潟」の事を指していたのです。

九州では「潟」というと「沼」ではなく「泥で作られた低湿地」を指します。

この有名な元寇の絵はそんな泥にハマりながら戦う様子を描いたものだったのですね。

砂浜で戦っているものとばかり思っていました。

では「塩屋橋」周辺は干潟だったのでしょうか?

塩屋橋近辺を確認してみる

塩屋橋に実際に行ってみました。

塩屋橋周辺は一見普通の川のように見えます。

特に干潟らしきものは見あたりません。

▲ 塩屋橋周辺全てにこの土のう袋が積まれていました。

土地が低く度々川が氾濫する地域にはこのように土のう袋がつまれていることがよくあります。

今だにこんな土のう袋で対策しているということは、河川が整備されていない昔は水があふれ放題で、干潟のような湿潤な低湿地が広がっていたと推測されます。

季長の「干潟で馬が転倒してしまって逃げられてしまった」という記録とも一致します。

う〜ん、まさかこんなものからヒントを得られるとは思っていませんでした。

やっぱり現地調査はやってみるものですね。

「鳥飼」「塩屋」とい名前、竹崎季長の「干潟で馬が転倒してしまって逃げられてしまった」という記録など、全てが一致する土地はこの場所以外に無いように思えます。

あの有名な元寇の絵はこの周辺で間違いないのではないでしょうか?

あの絵に描かれている松の木がないかと、近辺を散策して古い松の木を探してみましたがさすがにありませんでした。

▲ この場所で竹崎季長が戦っていたのではないかと想像すると、何ともロマンがありますね。

あの有名な絵がこんなに身近な場所にあったのかと考えると胸があついです。

【参考文献】
・Wikipedia「元寇

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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