【今津】第一次世界大戦中に捕虜となったドイツ兵が修復したと言われる今津の元寇防塁
第一次世界大戦中に捕虜となったドイツ兵が修復したと言われる今津の元寇防塁を見に行ってみました。[map addr=”33.610108,130.250813″]
▲ 場所はこちらです。
▲ かなり深い松林が続いています。
全く人気がない場所なので複数人で行くことをおすすめします。
▲ 「史跡 元寇防塁」の石柱が見えてきました。
▲ こちらが今津の元寇防塁です。おそらく現存している元寇防塁の中では最も長いものだと思います。
多少の修復はしていると思いますが、レプリカではなく作られた当時からほぼそのままの姿で現存しています。
▲ 案内板にはこう書かれていました。
鎌倉時代の文永11年(1274年)11月、蒙古(元)の国王フビライは日本侵略を企て博多湾に襲来しました。この戦いで日本軍は苦戦し、博多のまちは大きな被害を受けました。これを文永の役とよんでいます。
文永の役後、健治2年(1276年)に鎌倉幕府は九州諸国の御家人等に命じ、博多湾岸約20kmにわたって石築地を築かせました。この石築地は元軍の再度の襲来にそなえて、上陸を防ごうというもので、元寇防塁とよばれています。この元寇防塁は弘安の役(1281年)の際には日本軍の重要な防衛拠点となりました。
今津地区の元寇防塁は日向国と大隅国(宮崎県と鹿児島県の一部)が担当しました。防塁の工法は各国でちがいます。今津地区では、石積み幅が下は3m、上が2m、高さ3mの台形状に築かれています、ここ今津地区ではほぼ完全な姿で残っており長さ200mにわたり復元されています。元寇防塁は他に類をみない遺跡として歴史上重要なものであり、国の史跡として保存されています。
ちなみに、元寇防塁という名前は考古学者の中山平次郎によるもので、古文書では「石築地(いしついじ)」という名前で呼ばれています。
▲ 文永の役で蒙古軍から襲撃を受けたため、国防を目的として今津から香椎まで約20kmにわたって石の壁が築かれました。
2回めの襲撃の弘安の役の際にはこの防塁が力を発揮し、蒙古軍を上陸させなかったと言われています。
▲ 元寇防塁は福岡城を築城する際に城の石垣として使うためにことごとく破壊され、その多くが失われてしまっています。
しかし今津の元寇防塁は土の中に埋まっていたためなのか、福岡城から遠かったためなのか、破壊されることなくそのままの状態で残っています。
▲ こうやって横から見てみるとけっこう厚みがあることがわかりますね。
▲ 実はこの元寇防塁の発掘、修復作業には第一次世界大戦中に当時ドイツの極東における根拠地であった青島(チンタオ)で日本軍の捕虜となったドイツ兵によって行われたと言われています。
1914年(大正3年)の青島陥落の際に主力兵となっていたのが久留米の第十八師団だったことから、ドイツ兵の捕虜は久留米に収容されましたが、その後、各地に分散されています。
福岡市での捕虜収容所は柳町にあった遊郭跡地だと言われています。
▲ その捕虜の中で労働を希望したものは今津の元寇防塁修復にあたらせられました。
ドイツ人捕虜の扱いは、国際条約(ハーグ条約)を順守したもので労働に対しては日本の将校・兵卒と同様の給与が支給され、本国との手紙のやり取りが許されていたり、飲酒も許されていたりしたそうです。
その一方であまり住環境は良くなく、病気になる人も多かったという文献もあります。
そのあたりは実際の所どうだったのかは不明です。
いずれにせよ、ドイツからはるか遠くの青島に配属され、さらに極東の日本まで連れて来られ、いつ帰れるともしれない状況に身を置かされるというのはとても不安だったことでしょう。
▲ 同じく今津にある「元寇殲滅之処」の石碑は1916年(大正5年)に建立されていますが、こちらもドイツ兵の捕虜によって作られたものだと言われています。(写真はWikipedia元寇より)
その後、1919年(大正8年)にヴェルサイユ条約により捕虜の本国送還が行われましたが、そのまま日本に残って事業を起こした人もけっこういたと言われています。
▲ また、福岡市中央区谷の陸軍墓地には敷地の隅の方にひっそりとドイツ兵捕虜の墓が作られています。→陸軍墓地にあるドイツ人捕虜の名が刻まれた墓
【参考サイト】
・Wikipedia元寇防塁
・Wikipedia元寇
・ドイツ人捕虜の遺産