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【福岡市】名島の妙見島跡にある豊臣秀吉が使ったと言われる井戸

名島の妙見島跡に豊臣秀吉が使ったと言われる井戸が残っています。


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▲ 妙見島があった場所はこちらです。

現在は埋め立てによって陸続きになっていますが、かつては妙見島という島が存在していました。


▲ 現在はこんな風景ですが、


▲ かつて島だった時はこういう感じだったようです。※ 詳しくはこちら→ひと昔前まで名島にあった妙見島の痕跡を探る

この妙見島だった場所に残る豊臣秀吉が使ったと言われる井戸が ↓↓↓ こちらです。↓↓↓


▲ 私有地なので入ることはできませんが、特別に入ることができたので見させてもらいました。


▲ なんともひっそりとした佇まいですが、「太閤秀吉公茶遊井戸跡」と確かに書かれています。

なんでも、小早川隆景が秀吉を招いて茶会を開いたという話しらしいですが、調べてみても文献等がヒットしません。

よくよく調べてみると、こういう記事を発見しました。

名島の歴史シリーズ パート9 名島城 | 名島校区自治協議会ニュース

↑この記事には博多の豪商の神屋宗湛による日記「宗湛日記」に書かれている妙見島の記述を引用して、

神屋宗湛や嶋井宗室などの博多の豪商達は、再三普請見舞いをしている「・・・同三月六日に御普請お見舞いに罷り出た時は、白塗り酒一徳利と重箱三重に御肴を入れ進上したところ、 妙見嶋と名嶋の間の浜でご馳走になろうと仰られ、浜までお供をした。 隆景様は、この浜で御酒を召され、この酒は大変良く練れて実に良い味であると誉めになった…J と 『宗湛日記』 にある。小早川家中と博多町衆との融和を図り親睦を深めるために、 盛んに茶会が開かれた。「同二十七日昼、名島の妙見嶋に於て、 隆景様御茶会を催された事 苫葺で囲い壁は青柴で組み、 岩の上を道に仕立てて入口を設け、茶屋の内には石を立て、釜を据え、水差には高麗の摺鉢、炭入れには雑笥を使い、この外も取合せ物で、殊の外ご機嫌にて満足致しました…」と『宗湛日記』に茶会の様子が記してある。また築城の費用の一部を博多町衆が負担していることが 『福岡県碑誌』 に 「同 ー5 年丁亥小早川隆景名嶋城を築く、 宗湛と宗室等共に共経営を弁ず…」 とあるので解かる。

と書かれていました。要約すると

・三月六日、神屋宗湛や嶋井宗室などの博多の豪商達が小早川隆景に普請見舞い(何かのお礼?)をした
・小早川隆景にお酒を献上したら妙見島と名島の間の浜(当時、妙見島と名島は引き潮の時だけ砂浜でつながった)で飲もうと言ったので一緒に飲んだ
・二十七日の昼には妙見島で簡易的な茶室をこしらえて茶会を行った

ということのようです。

これはあくまでも推測ですが、おそらく「宗湛日記」の博多の豪商達と小早川隆景の茶会の話がだんだん変化して豊臣秀吉と小早川隆景という風に変わっていったのではないでしょうか?

ただ、当時、秀吉は朝鮮半島への進出を目指して北部九州に出入りしていたので、実際来ていたとしても不思議ではありません。


▲ 真相はわかりませんが、秀吉がここにいたかもしれないと思うとびっくりですね。

【参考文献】
名島の歴史シリーズ パート9 名島城 | 名島校区自治協議会ニュース

神屋宗湛の残した日記 (講談社文芸文庫)
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ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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