福岡市中央区今泉にあるキリシタン遺跡?
福岡市中央区今泉の長圓寺に不思議な石碑があります。
▲ 長圓寺は福岡県福岡市中央区今泉2丁目4−17にあります。
▲ 長圓寺の門を入ります。
▲ 門を入ってすぐ左側のこの石碑です。
木の間にひっそりと建っています。
▲ この形、何かに似ていると思いませんか?
▲ そう、十字架にそっくりなのです。
▲ 十字架の左右を削ぎ落したような形で何とも不思議です。
上部も削らているような感じがします。
▲ 十字架の形であればこのあたりに手の部分が付いているはずですが、そのような痕跡はみあたりません。
▲ 下の部分には人型の像が彫られています。
▲ しかし、風化してしまっているか、もしくは意図的に削られてしまっているのか、何が彫られていたのかは判別できません。
いいお墓 青龍山 長圓寺(長円寺)によると下記のようにあります。
長圓寺は禅宗(曹洞宗・大本山永平寺・総持寺=本山)として、黒田藩如水公の実弟黒田兵庫助利高公を開基に元和五年創立より約三百七十年経過した由緒あるお寺である。
宗誕は福岡藩初代藩主・黒田長政の夫人である大涼院に才能を見いだされ、長政から寺地を賜り、慶長年間(1596~1615年)の中頃に長圓寺を創建。
その後、正保3年(1646年)に現在地に移転し、今日に至っています。
長圓寺は黒田家との関わりが深く、その寺号も長政の「長」と、長政の父で福岡藩祖・黒田如水の法名である如水円清の「円」から取ったものと伝えられている。
このように、長圓寺は黒田家との関わりが非常に深いお寺です。
黒田家はキリシタン大名だった
▲ 長圓寺の開基、黒田兵庫助利高に関してWikipediaで調べてみると、「キリシタンであったという」と書かれています。※画像は福岡城むかし探訪館に掲載されていたものを引用
黒田兵庫助利高の兄、黒田如水(福岡藩の藩祖)もキリシタン大名であったことから、福岡城址からも十字架の書かれた物品が出土しています。
福岡城瓦に「十字架」 黒田如水、長政信仰示す?
→十字架の写真はこちら
しかし、後に黒田家はキリシタンを棄教する
▲ 黒田長政は「バテレン追放令により、秀吉から改宗を迫られ、父の孝高が率先してキリスト教を棄教すると長政自らも改宗(上記画像、文章ともにWikipedia 黒田長政 より引用)」しています。
逆に、「徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰(Wikipedia 黒田長政 より引用)」しています。
【仮説.1】実は隠れキリシタンになっていた?
実はキリシタン信仰を捨てておらず、隠れキリシタンとして信仰を続けていたとすると、先程の十字架に似た石碑の理由もわかります。
▲ こちらの像は「強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教(カトリック)を偽装棄教したキリスト教信者(上記写真、ともに Wikipedia 隠れキリシタン より引用)」が使用していたマリア観音(主に中国製の慈母観音像を、聖母マリアに見立てて信仰の対象としていたもの)とマリア地蔵です。
これらと同じような使われ方をしていたとすると、仕方なく中途半端な「十字架っぽい」形状にせざるを得なかったことが納得できます。
【仮説.2】キリシタンを弔うものだった?
黒田長政は「徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰(Wikipedia 黒田長政 より引用)」していますが、その弾圧は悲惨なものでした。
下記ページに詳しく記述されています。
殉教者列伝(10)- 福岡藩における殉教
http://homepage2.nifty.com/gioan-awk/martyrs-10~fukuoka.htm
元々同じキリシタンであった同情心からか、この「十字架っぽい」像を建てることが、これらの人々へのせめてもの弔いだったのかもしれません。
▲ 今となっては この石碑がどうして建てられたのかはわかりませんが、いずれにしても とても気になるものですね。
【参考文献】
・いいお墓 「青龍山 長圓寺(長円寺)」
・福岡城むかし探訪館 展示物
・47 NEWS 「福岡城瓦に「十字架」 黒田如水、長政信仰示す?」
・* ゆるゆるな毎日 * 「崇福寺山門特別公開。」
・切支丹の書斎 「殉教者列伝(10)- 福岡藩における殉教」
・Wikipedia 「黒田利高」
・Wikipedia 「黒田長政」
・Wikipedia 「隠れキリシタン」