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【福岡城】福岡藩が江戸幕府に提出した石垣の修復許可を得るための文書

福岡城の南ノ丸多聞櫓(みなみのまるたもんやぐら)の石垣下にある案内看板にちょっと珍しい文書が掲載されていました。

▲ 南ノ丸多聞櫓の場所はこちらです。

▲ 案内看板には福岡城の石垣に関する解説が書かれています。

▲ その横に掲載されている文書の内容が興味深いです。

▲ 「筑前国福岡の惣曲輪(福岡城下を囲っている堀)の東入口の南側の門に続く石垣が崩れている所が1ヶ所あり、崩れている所は絵図の赤色で線を引いた部分となり、度々崩れています。これを元通りに築き直してもよろしいかお伺いさせていただきます。」という内容のことが書かれています。

福岡藩が江戸幕府に提出した石垣の修復許可を得るための文書です。

明和2年ですので1765年に提出されたもののようです。

▲ 「絵図の赤色で線を引いた部分」を確認してみると「東取入」の南側の門(※上記絵図は南北が逆になっています)の少し横が示されています。

右側に「ここは高さ三間(5〜6メートルほど)、横五間(10〜11メートルほど)あります」と書かれ、「ここが高さ一間半(2メートルほど)、横一間(1.8メートルほど)が崩れています」と書かれています。

▲ この崩れている場所は現在で言うと赤煉瓦文化館の横にある西中島付近です。

この場所には江戸時代から明治初期にかけて、枡形門とよばれる大きな門がありました。

上記の文書はそこが崩れているので修理させて下さいと幕府にお伺いを立てている文書のようです。

今の感覚からすると、石垣が崩れたぐらい さっさと修理すればいいのでは??と思ってしまいますが、武家諸法度(武士が守るべき規範のようなもの)の徳川家光が発布した「寛永令」と言われる令で下記のような記述があるため、そうもいかなかったようです。

一、新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事。

要は「新しく城を建てることは禁止、修理するときは必ず許可を得てからやること」という内容のものです。

徳川幕府が絶対的な権力を保つためにこのような法令を出していたのだそうです。

それで、福岡藩も武家諸法度にしたがってちゃんと石垣修理の許可を得ていた、というわけですね。

↓ ちなみに福岡城には この他にもたくさんの案内看板が設置されていて面白いですよ。

▲ ちょっとした豆知識や古写真、古地図、絵図、CGで天守閣を再現したものなど色々と興味深いものがありますので福岡城に行った時にはこれらの案内看板も見逃せませんよ!

甦れ!幻の福岡城天守閣
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ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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