福岡空港内に今も残る米軍基地
『2ちゃんねる』の創始者である西村博之(通称、ひろゆき)氏による辺野古ゲート前座り込み看板のツイートが様々な議論を呼んでいる。
座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない? pic.twitter.com/w6oTCQO94t
— ひろゆき (@hirox246) October 3, 2022
騒動の詳しい内容については割愛するが、普天間基地移設問題、及び辺野古新基地建設に関して、再び世間の注目が集まっている。
偶然のタイミングではあるが、今年、2022年は福岡市の板付基地がアメリカから返還されて50年の節目の年となる。(後述するが、厳密には板付基地は完全に返還されておらず、今でも米軍によって一部が使用されている。)
板付基地は現在の福岡空港にあった米軍の基地である。
今日、日本における米軍基地というと、横須賀や佐世保、沖縄などが連想されがちだが、かつては福岡にも板付基地という大規模な米軍基地が存在していたのだ。
ではどういう経緯で福岡の米軍基地は返還に至ったのだろうか。
板付基地の源流は、戦時中の1945(昭和20)年5月に帝国陸軍航空部隊によって造られた席田(むしろだ)飛行場にある。
沖縄に上陸した米軍の偵察を目的とした飛行場であったが、敗戦となり、完成からわずか5ヶ月後の1945(昭和20)年10月に米軍に接収され、板付基地となった。
板付基地は1972(昭和47)年までに大部分が返還されることになるが、返還までの30年弱の間、基地内外であらゆる事故や問題が発生している。
1955(昭和30)年11月発行の『福岡市政だより』には「生命を脅かす基地“板付”」と題して、基地の抱える諸問題を解説するとともに、下記のように基地周辺で発生した数々の事故の事例が挙げられている。
❶昭和二十年……二股瀬を経て九大農学部の松林に墜落、機体焼失。
❷二十二年二月二日……基地拡張資材を運搬していた米軍トラックが、民家に二回も衝突、ついに隣家とともに移転のやむなきに至る。……両家とも補償なし。
❸二十二年三月十七日……大井町の辻さんが道路を通行中、標的吹き流しのロープに引きかけられて片足を切断。(補償は不明)
❹二十四年一月二十日……須恵町の山本恵さん(当時十五歳)は、自宅で雑談中、飛行機から銃弾のため左肘関節を貫通する重傷を負う。
❺二十四年十二月……場外道路を通行中の中学生が飛行中の機体からガソリンを浴びて引火、全身に火傷をして死亡す。…補償なし。
❻二十五年三月六日……筑紫村大字西小田の民家に墜落、炎上したため、家財道具、家屋、畑にも被害を受けた。
❼二十五年六月……二股瀬から千米はなれた地点の田に墜落。
❽二十六年二月……二股瀬より二百米の地点の田畑にジェット機が墜落、搭乗員焼死。
❾二十六年二月二十八日……那珂町の高山氏は、西堅粕を自転車で通行中、占領軍トラックにはねられて即死。この種の事故はかなりの数にのぼり、周船寺の松原フジエさん(三歳)同じく冨永とし子さん(四歳)も二十四年に、同様事故で即死している。
➓二十六年四月十四日……大濠新町の浜地氏は、警固派出所前で米軍乗用車に頭を強打され、発狂ついに太宰府の雑木林で縊死。
⓫二十六年五月五日……志免町南里氏所有の麦畑にジェット機からの五百ポンド爆弾が落下、大穴をあけた。
⓬二十六年五月十日……二股瀬の小西、堀内両氏宅に墜落、近隣に火災を引き起し、住民十一名が死亡。…補償は総額六十四万円という少額。
⓭ 二十七年……二股瀬から一キロの地点で畑中の高圧線を切断。
⓮二十八年六月……二股瀬の安武氏宅附近に大型爆弾。直径二米深さ五米の大穴をあけた。
⓯二十九年七月……滑走後浮揚できずに、田圃に突込む。
⓰二十九年十一月……ジェット機墜落。
⓱三十年四月……高圧線が切断される。
⓲三十年六月十五日……ジェット機墜落。作業中の吉原さんは機体の下敷きとなり即死。
同じく五月、月隈のバス停留所近くに墜落、席田小学校に流弾が飛ぶ
⓳三十年十月十二日……南公園にある米軍高射砲陣地で爆発が起り、市内浪人谷の田畑に鉄板(長さ二メートル、巾一メートル)が、また、近くに鉄管二個が落下。
⓴三十年十月二十五日……粕屋郡仲原村上空で、ジェット機二機が接触、一機は空中分解して、同村川口さん方に墜落したため川口さん宅は全焼。
また、他の一機は、粕屋郡多々良村の田の中に落ち、直径七メートルの大穴をあけた。
事故だけでなく、殊に騒音に関しては大きな問題となっていた。
1955(昭和30)年7月発行の市政だよりでは「板付基地のジェット機 一日に四一六回の爆音 もう我慢ができません」というキャプションとともに騒音被害の実態が掲載されている。
市教育委員会で基地教育研究会なるものを組織し、基地近隣の小学校(月隈、席田、筥松、箱崎、馬出、千代、吉塚、堅粕)、中学校(箱崎、福岡、千代、東光)、高校(商業高校)にて騒音の計測と生徒への聞き取り調査が実施された。
その調査結果によると、文部省が学習困難な基準とする騒音70ホーンを大きく上回る120ホーンが1日に416回計測されたという。
あまりにも騒音が凄まじいので、2、3分に一度は授業を中断せざるを得ず、児童の学力低下をきたしていると記されている。
他にも、基地周辺では農業への影響もあったようだ。
1955(昭和30)年11月発行の市政だよりには「収穫の減る稲」とキャプションがつけられ、農作物への影響が語られている。
記事によると、飛行場の排水不全によって、大雨が降ると周辺の田に排水できなかった水が押し寄せてくるという。
梅雨時などは三尺(約90cm)ほども冠水するそうで、一反あたり七俵獲れていた米がわずか三俵しか獲れなくなってしまったそうだ。
基地周辺の田には折れた稲が果てしなく広がっているといい、その様子が写真と共に掲載されている。
元々そこに田を持っていた人にとっては、ある日突然陸軍の飛行場が完成して、それならまだ「お国のために」と我慢できたのかもしれないが、敵か味方かさえよくわからない米軍の基地によってこのような仕打ちを受けるのはたまったものではないという感情だったことだろう。
かといって、現代のように気軽に郊外のアパートなどに引っ越すというような選択も取れない住宅事情、経済事情であったことは容易に想像ができる。
このように、事故の多発や騒音等の様々な問題により、1952(昭和27)年にはすでに福岡市議会で板付基地反対の決議が行われている。
そして、1955(昭和30)年6月には全市議会議員50名、全校区代表45名、九大総長を含む各種団体役員約200名からなる『板付基地移転促進協議会』が発足し、基地移転を訴える運動が実施された。
運動が急速に展開するきっかけとなるのはそれからさらに十数年の時を経た1968(昭和43)年のことである。
6月2日22時48分頃、福岡市の箱崎周辺に轟音が鳴り響いた。
九州大学の構内に、板付基地へ着陸しようとしていた米軍のジェット戦闘機RF-4Cファントム偵察機が墜落したのである。
機体は当時建設途中だった6階建ての大型計算センターに直撃し、燃料に引火して激しく炎上した。
幸いなことに周辺には誰もおらず、搭乗員もパラシュートで脱出したので事故による死傷者は出なかったものの、大きく損壊した建物に戦闘機の尾翼が突き出した姿はメディアでもセンセーショナルに報じられた。
また、墜落現場の近くに放射性物質を扱う実験室があったことも人々に衝撃を与え、板付基地反対運動はピークに達する。
墜落事故を報じた朝日新聞の記事によると、事故直後、抗議に集まった人は九大生を中心に400名にも及び、現場を訪れた米軍の車を取り囲むなど一触即発の状況も起きていたという。
その後もデモは大きくなり、最終的には最大で6000人規模のものとなった。
それまで国は板付基地の問題に関して防音装置を作る提案程度の対応しかしてこなかったが、事態を重く見て話は一気に進展することになる。
当時、福岡市長だった阿部源蔵は佐藤栄作首相を訪ね、人口80万もの大都市に軍事基地があるなど世界に例がないとして、板付基地の早期移転を強く要請した。
その後、数日の間に移転の方針が固められ、アメリカ側もこれを了承することとなった。
板付基地は、現在の福岡空港の敷地となっている板付飛行場を中心として、雁ノ巣空軍施設、春日原住宅地区、名島倉庫地区、和白給水施設、新宮水道施設、仲原通信中継所、平尾通信中継所、脊振山連絡所の9つの区域で構成されていた。
このうち、福岡市内の施設は板付飛行場、雁ノ巣空軍施設、名島倉庫地区、和白給水施設、平尾通信所、脊振山連絡所の6ヶ所である。
名島倉庫地区、平尾通信所は1972(昭和47)年5月10日に返還、和白給水施設は1972(昭和47)年6月30日に返還となっている。
雁ノ巣空軍施設は下図のように段階的に返還されている。
また、脊振山連絡所についてはごく近年、ようやく全ての土地が返還に至っている。
そして板付飛行場(福岡空港)については下図のように、一部は現在も米軍の施設として使用されている。
この福岡空港内の米軍施設は、AMC(航空機動軍団)と言われる輸送機や空中給油機などを運用する空軍部隊の建物になっており、2021(令和3)年に福岡空港の滑走路増設に伴い、場所を若干移し、建て直されている。
ちなみに移設のためにかかった費用30億円は福岡県と福岡市が負担しており、返還を求める立場を取りながら費用を負担するのは矛盾しているのではないかとの批判もある。
ちなみに、空港の西側100メートルほどの距離にある福岡市埋蔵文化財センター月隈収蔵庫の裏には古い弾薬庫跡が残っている。
「福岡の近代化遺産/弦書房 九州産業考古学会」によると、戦時中は日本軍の弾薬庫として使われ、その後米軍に接収され、返還後は政府の倉庫として使用されているとのことである。
壁面には「DANGER EXPLOSIVES NO SMOKING WITHIN 50 FEET」の英字が見える。
現在も残る、数少ない米軍施設の名残である。
【参考文献】
・福岡市政だよりNo.92(昭和30年7月15日発行)、No.93(昭和30年7月25日発行)、No.95(昭和30年8月15日発行)、No.103(昭和30年11月5日発行)、No.468(昭和43年6月25日発行)
・九大に米軍機が墜落. 朝日新聞. 1986-06-03, 朝刊, 12版, p.15
・福岡市役所発行. 板付基地. 1972, p.1-3
・板付基地返還促進協議会. 第24回定期総会. 1988,p.14-16
・九州産業考古学会. 福岡の近代化遺産. 弦書房, 2008, p.110
【参考サイト】
・RKB “福岡空港に「米軍基地」 基地の撤去求めながら日本が30億円負担して移転 今も残る矛盾” Yahoo! ニュース. 2022-08,https://news.yahoo.co.jp/articles/da228f511bf03a30157f46232c74151a4f63eebb?page=2,(参照 2022-10-09)