福岡の黒田官兵衛ゆかりの地まとめ
黒田官兵衛は晩年の数年間を福岡で過ごしています。
福岡にもいくつか官兵衛ゆかりの地がありますので紹介したいと思います。
福岡城
▲ 黒田家は関ヶ原の戦い後、福岡にやってきます。
最初は名島城(→名島城のなごりを古地図を見ながら調べてみた)に入りましたが、色々と不都合があったため新たに福岡城を築きました。
官兵衛は築城の名人でもあったそうで、熊本城を作った加藤清正も福岡城の堅牢さには舌を巻いたと言われています。
▲ 官兵衛はすでに家督を息子の長政に譲っていましたので 現在、ぼたん・しゃくやく園になっている「三ノ丸御鷹屋敷」で隠居生活を送っていました。
「筑前国続風土記」には「城内のいぬゐに小高き山あり。是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきき岡とし、如水公のときゅうの宅地とせらる」、つまり「城内の北西に小高い山があります。本丸より高かったので山をならして低い岡にし、如水公(官兵衛)の隠居の地にされました」と、官兵衛がここにいたことが記されています。
▲ 石碑が立てられているだけで、正直 な〜んにもない場所ですので、もし行くとしたらせめて花が咲いている時期のほうがいいかもしれません。。。
▲ 福岡城に設置されている看板の古地図にもちゃんと三ノ丸御鷹屋敷が描かれていました。
太宰府天満宮
▲ 官兵衛は太宰府天満宮でも1年半ほど過ごしています。
荒廃していた太宰府天満宮の復興に力を注いだともいわれています。
また、正室の光姫や息子の長政と連歌会を楽しんだりしていたそうです。「松梅や末永かれと緑立つ山より続く里はふく岡」と、「福岡」の名前が出てくる歌を残しています。
太宰府天満宮には官兵衛が使っていたと言われている井戸や官兵衛を祀った如水社もあります。
崇福寺
▲ 崇福寺は黒田家の菩提寺です。黒田官兵衛のお墓があります。
ちなみにこちらの門は福岡城の本丸表御門を移設したものです。
圓應寺
▲ 官兵衛の正室、照福院(光姫)が建立したお寺です。黒田家の菩提寺です。
▲ お寺の門には黒田家の家紋があります。
▲ 光姫の墓碑もあります。戦前までは墓石の中に光姫の遺髪が納められていたそうですが、福岡大空襲の際に焼けてしまったのだそうです。
光雲神社
▲ 光雲神社は官兵衛と息子の長政を祀った神社です。
福岡藩の藩祖黒田如水と初代藩主長政父子を祭る神社です。社号はふたりの法名「龍光院」と「興雲院」から「光」と「雲」を取りあわせたもので、六代藩主黒田継高(1703年-1775年)のとき、福岡城内に二人を祭ったのがはじまりとされています。明治40年(1907年)にこの地へと移されましたが、太平洋戦争による戦災で消失。現在の社殿は、昭和41年(1966年)に再建されました。境内には民謡「黒田節」のモデルとなった母里太兵衛の等身大の銅像があります。(光雲神社案内看板より)
▲ 至る所に黒田家の家紋があります。
▲ こちらが母里太兵衛の銅像です。
大河ドラマでは速水もこみちが演じる人物ですが、今後、官兵衛と光姫にとって たいへん重要な働きをすることになる人物です。
▲ 官兵衛の息子、長政が使った水牛兜の像もあります。
博多町割
▲ 特定の場所ではありませんが、博多の町が碁盤の目になっているのも官兵衛の発案だと言われています。
Wikipediaの「流 (博多)」には
那珂川・御笠川・博多湾・房州堀(およそ現在の国体道路国道202号)に囲まれた狭義としての博多は、安土桃山時代までは自治都市として栄えたが戦火により荒廃。九州征伐を終えた豊臣秀吉は1587年に博多の復興を構想、黒田孝高(如水)に立案させ、石田三成をはじめ滝川雄利・長束正家・小西行長・山崎片家らを復興事業にあたらせた。この区画整理事業は太閤町割りと呼ばれる。
とあり、現在でも残る町並みは官兵衛の尽力があったためと言えます。
▼ 古地図でもすでに現在とほぼ変わらない町割りができていることがよくわかります。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kochizu/joka/kenshi651-04.html
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これらの官兵衛ゆかりの地を巡ってみると、大河ドラマをもっと楽しめるかもしれませんよ。
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黒田官兵衛ゆかりの地 太宰府(太宰府市ホームページ)
http://www.city.dazaifu.lg.jp/kankou-ka/kurodakanbeeyukarinotidazaifu.html