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【福岡市】博多リバレインの横辺りから遣唐使船が行き来していた?!

博多リバレインの横に鏡天満宮という神社があります。


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▲ 場所はこちらです。

案内看板にはこのように書かれていました。

当社は鏡天満宮と呼ばれ、延喜元年(901年)讒言によって太宰府の権師に左遷配所され給いし菅公が、博多に上陸された第一歩の地に御休息の時、「海路の疲れにおやつれ給ひし御相顔を鏡に映して御覧になった」と伝えられる鏡をお祀りする神社です。
一説には、菅公の供奴をした者とその子孫が菅公を慕い、宅内に神として祀った神社をはじまりとして奴天神(やっこじんじゃ)とも呼ばれています。

なるほど、菅原道真の顔を川にうつしたエピソード(→【薬院】菅原道真が川に映った自分の顔を見てガッカリした場所を探す)に関連する神社なんですね。

また、↓こうも書かれていました。

当時、この辺りは博多の渡唐口といわれ遣唐使が多く行き交い大陸の文化がさきがけて我が国に上陸したところですが、現在の社殿の近くには唐から帰った伝教大師(天台宗の開祖最澄)の建立による明王山冷泉寺があったと伝えられています。また平安時代に入ると平清盛によって袖の湊が築かれ日宋貿易の玄関口として一層の繁栄をきわめ商都博多の礎となったところでもあります。


▲ 鏡天満宮の前には渡唐口と書かれた石碑もありました。

まさにこの場所から遣唐使船が行き来していたのですね!教科書に載っているような事がここで行われていたとは知りませんでした。遣唐使というものは知っていても実際にどこの港から出港したかということはあまり考えたことが無かったです。

唐とつながりができて、その貿易で莫大な利益を得た豪商たちが生まれてくることを考えると、この場所はとても重要な場所だと言えるでしょうね。ただ、その利権を求めて博多の町は度々戦乱に巻き込まれてしまうことになりますが・・・。


▲ 鎌倉時代の博多をあらわした博多古図の「袖の湊」の部分を見ると、唐船がここから出ていたことが記されています。(→拡大して確認する)※絵図は地下鉄呉服町駅近くの案内看板より


▲ しかし、現在も残っている神社やお寺などを考えると、その位置関係に矛盾することも多く、袖の湊の正確な場所は不明なのだそうです。

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ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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