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シーサイドももち周辺の歴史

シーサイドももちは1989年に開催されたアジア太平洋博覧会(よかトピア)のために1982年から海を埋め立てられてできた場所です。

「百道(ももち)」という名前の由来はWikipediaの「百道」のページによると、

遥か昔この地域が干潟であった頃、そこを往来する人々の足跡が東西縦横に交差する様を「百の道」と表し、転じて「百道」となったと言われている。

とあります。また、

1969年(昭和44年)に、それまでは通称名でしかなかった「百道」を西新町・藤崎町・弥生町の各一部を分割して成立した町名として設定した。

とも書かれています。つまり、オフィシャルな地名としての「百道」はここ数十年のことなのですね。

▲ 江戸時代の古地図を見てみると、「百道松原」と書かれていて、湿地帯のようになっていたようです。(※ 地図は「古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み」【海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編】より引用)

▲ 百道松原はこのあたりですね。西新のやや北側一帯は松林が広がっていたようです。

さらに北のマリナ通りから北側は海だったようです。

▲ 昭和中頃までは松林が残っている場所も多かったと言われていますが、実は現在でもそのなごりがある場所があります。

上記地図の矢印部分を航空写真で見てみると、


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▲ このような感じです。百道小学校の敷地に昔からある松が少し残っているのだそうです。

そして、百道小学校の校歌には以下の様な歌詞があります。

とび魚はねる 百道の浜の 松の緑は ぼくらの姿 わたしの姿
(※百道小学校「松葉の会」より引用)

まさに松林があって、海があって、という景色が想像できますね。

▲ 昭和23年の地図を見てみると、「百々道松原」と書かれていて、その北は「海水浴場」と書かれています。(※地図は「昭和23年、昭和36年の福岡と現在の福岡(塔文社 レトロマップシリーズ5)」より)

現在のマリナ通りはもともと海水浴場だったのですね!


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▲ ここが海水浴場だったとは!


より大きな地図で 百道海水浴場跡碑 を表示

▲ 実はマリナ通りの脇には「百道海水浴場跡碑」という海水浴場だったことを示す碑もあるのですよ。

あと、もうひとつここが海岸だったことを示すものがあります。

▲ これです。

じつは「サザエさん」は作者の長谷川町子さんがこの海岸を散歩しているときに海に関する登場人物を思いついてうまれた物語なのです。(→ 詳細はこちらの記事「サザエさんがお魚くわえたドラ猫を追っかけたのは福岡だった そして その理由もけっこう深かった」)

▲ そして「サザエさん発案の地」の碑もちゃんとあります。

▲ サザエさんはここが海だったから生まれた物語だったのですね。

↓ちなみに百道浜海水浴場の写真はこちらで見ることができます。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/showa39/002/photo/sh_002_07080801.htm

▲ そして、1988年の塔文社「福岡市」の地図を見てみると、「アジア太平洋博覧会 福岡’98開催会場」と書かれています。

▲ この際にこのあたり一帯が埋め立てられて現在の形になりました。(※一部、それ以前に段階的に埋め立てられた場所もあるようです)

▲ 実はこの旧海岸線の痕跡がそのまま残っている場所があります。

マリノアシティ近くのベスト電器の外壁です。

▲ こちらの外壁、これは元々堤防だったものがそのまま使用されています。

確かにこの内巻きに丸みを帯びた形は堤防っぽいですね。

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色んな所に昔の痕跡が残っていたりして大変興味深いですね。

みなさんもマリナ通りを通った時にはこれらの痕跡を確認してみて下さいね。

【参考文献リスト】
・昭和23年、昭和36年の福岡と現在の福岡(塔文社 レトロマップシリーズ5)
古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み(海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編)

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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