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中洲最南端に遊園地の痕跡がある?!

先日、中洲の一番南の公園に「魚市場」と書かれた謎の石柱があると教えてもらいました。


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▲ 地図の緑色の矢印の部分です。

キャナルシティのグランドハイアット側の向かいといえばわかりやすいでしょうか。

▲ この公園、清流公園という名前だったのですね。

▲ なにやら石柱というか灯台のようなものがみえます。

▲ おぉ!けっこうすごいです!高さは10メートルぐらいでしょうか。

こんなものがあったなんて知りませんでした。

▲ そして、台座(?)部分に確かに「魚市場」と書かれています。

▲ というか、全体にお店の名前らしきものがびっしりと刻まれています。

▲ 4面全てに上から下まで全てお店の名前で埋まっています。

▲ 人名もたくさん刻まれていますね。

いったいこれはなんなのでしょうか?

近くにあった由緒書きなどを調べてみると、これは「博多町家寄進高灯籠」といわれるものらしいです。

これを建築したのは八尋利兵衛という人物。

▲ 灯籠を隅々までよく確認してみると八尋利兵衛の名前を見つけることができました。

八尋利兵衛は博多下川端で「八尋金山堂」という漬物屋を経営していた人物でした。

明治12年、八尋利兵衛がまだ商売を始めたばかりのころ、博多の町は不景気で活気を失っていました。

ある時、八尋利兵衛は大阪の呉服屋で「せいもん払い」というものが行われているのを目にしました。

「せいもん払い」とは今でいう在庫一掃セール的なもの。

当時の博多ではそういった風習はなく、大変画期的なものでした。

八尋利兵衛はこの在庫一掃セールを博多の商店全域で一斉にやれば町が活気づくのではと考え、さっそく周辺の店舗を説得して実行に移します。

明治12年12月3日、呉服店が28店舗参加し せいもん払い を実施した所、大変な盛り上がりとなり その後もずっと続けられるイベントとなりました。

これでけでは満足しない八尋利兵衛。

今度は東京の向島の遊園地を見て、同じようなものを博多にを作ろうと思い立ちます。

2年間の資金集めを経て、明治26年から今のキャナルシティ周辺の開発にとりかかります。

川を埋め立て、桜や柳などが1000本も植えられたといいます。

そして約4年後の明治30年についに「住吉向島遊園地」を開園し、大変なにぎわいをみせました。

▲ 様々な人から出資を募って作られた遊園地でしたので、賛同してくれた店舗の広告を灯籠に刻み、遊園地に展示していたのだそうです。それがこの灯籠です。

▲ 一番目立つように「魚市場」と刻まれているのは、魚市場が中心となって取り組んだ事業だったからだそうです。

▲ 広告をよ〜く確認してみると、ちゃっかり目立つところに八尋利兵衛が経営する漬物店「八尋金山堂」が掲載されていました。

▲ さらに現在でもお馴染みの店舗もみつけました!

▲ この灯籠はも ともとは遊園地の敷地であった現在のキャナルシティ周辺にありました。

戦後、この灯籠があったキャナルシティ周辺にスラム街が無秩序に作られ、埋立てで地盤が弱かったため灯籠が傾いて倒壊するおそれがありました。

そのため、昭和29年に現在の場所に移築されたのだそうです。

「住吉向島遊園地」があったキャナルシティはある意味では現在でも遊園地のようなものですので八尋利兵衛の情熱は現在でも生き続けているといえるかもしれませんね。

ちなみに・・・

「住吉向島遊園地」でもまだ満足しない八尋利兵衛は、明治35年、今度は中洲にド派手な「高砂館」というものを建てました。

▲ 浅草の「浅草凌雲閣」に影響されて作った木造8階建てで高さ約30メートルもある建物でした。(※写真は「思い出のアルバム 博多、あの頃(葦書房)」より引用)

形も8角形だったそうなので「8階建てで8角形、末広がりで縁起がいい!」ということだったのでしょうか。

▲ そして、よく見ると ここにも ちゃっかり「八尋金山堂」の広告が出されていました。

【参考文献リスト】
・思い出のアルバム 博多、あの頃(葦書房)
「誓文払い」ってなーに?
アイデアマンの八尋利兵衛が始めた誓文払い
福岡の景観ちょこっと知識
博多の憩いの場「清流公園」

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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