首都になっていたかもしれない那珂川
首都になっていたかもしれない那珂川。
博多南駅から南西方向に進み那珂川市図書館付近に差し掛かると、のどかな田園風景が広がってくる。
西側を油山・片縄山の山系に、そして東側を天拝山・牛頸山の山系に囲まれ、南に行くほどそれらの山々が迫ってくるという地形になっている。ちょうどVの字のような形である。
Vの字の先端部分には一見、何の変哲もない小さな川が流れている。これは「裂田の溝(うなで)」と言われる約1300年前に建造された人工の用水路だ。古い文献にも登場する水路で、日本書紀によると神功皇后が戦の勝利祈願のために神田を開き、その田に水を引くために掘った水路なのだそうだ。
水路を掘っている途中、巨大な岩が出現しそれ以上掘れなくなってしまったので、神功皇后の従者であった武内宿禰(たけうちのすくね)が祈祷をすると突然雷が落ち岩を裂いた、というエピソードがこの裂田の溝の名前の由来となっている。この話に登場する岩は裂田神社裏手の巨岩であるとも伝えられている。
そんな日本の原風景とも言える光景が広がる場所であるが、かつてこのあたりに都を作ることが検討されていたという。
時は源平合戦(治承・寿永の乱)の時代に遡る。寿永2(1183)年、都を追われた安徳天皇と平氏一門は、武将で大宰府の要職を務めた原田種直を頼って京から逃れてきた。種直は平清盛の長男である平重盛の養女を妻としていた。つまり、親戚関係にあったことから平氏との縁が深い人物であった。
種直の居城は現在の安徳台にあった。安徳台は約9万年前の阿蘇山の大噴火により生じた火砕流が堆積してできた台地だ。平野の中で一段高くなったその場所は防衛上、非常に有利な天然の要害となっていた。
平氏一門はこの場所を一時的に安徳天皇の御所と定めた。
平家物語には「つくしにみやこをさだめ、だいりつくらるべし」、つまり、筑紫を都として内裏(天皇の住む場所)を作るべきだと平家が話し合った、という記述もある。
しかし、源氏の追手が迫っているという情報が入り、この計画は実施には至らなかったが、現在でも残る「安徳」という地名にその名残をみることができる。
もし、この時筑紫が都と定められていたとしたなら、ここには今とは違った風景が広がっていたのかもしれない。