【小倉】リバーウォーク横にある乃木希典居住宅の跡
リバーウォークの横にひっそりと「乃木希典居住宅の跡」と書かれた碑が建てられています。
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▲ 場所はこちら。
▲ リバーウォーク南側の、
▲ この辺り。
▲ 「乃木希典 居住宅の跡」と書かれています。
▲ 日露戦争時の乃木希典(2段目の左から2番目)
碑の横にある説明文には
「この石碑は乃木さんが歩兵第十四聯隊長心得として明治八年十二月十九日着任以来同十年二月十三日西南の役に出動するまで居住した跡を示すものである。」
とあります。
明治8年(1875年)当時、九州・山口付近は明治維新によって立場を奪われた不平士族たちが数多く存在していたためいつ騒乱が起きてもおかしくない状態でした。
そんな中で陸軍歩兵第14連隊と歩兵第14連隊を管轄する歩兵第12旅団本部が小倉城の松の丸跡に置かれ、乃木は歩兵第14連隊長心得(副連隊長・連隊長代理的なもの)に任命され小倉へ居を構えました。
▲ 小倉城に残る歩兵第12旅団司令部の正門跡(→ 小倉城に残る軍施設の正門跡)
明治9年(1876年)、秋月の乱が発生し、乃木は他の反乱軍と合流しようとしていた士族を鎮圧しています。
更にその後、萩の乱が発生。萩の乱には実弟である玉木正誼(松下村塾の創立者である玉木文之進の養子となっていた)が反乱軍側に参加。
その事もあってか、乃木は自身の歩兵第14連隊を戦闘に参加させず、後に批判されています。
結局、玉木正誼は戦死するという悲惨な結末となっています。
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発し乃木は小倉を去っています。
西南戦争では反乱軍に連隊旗を奪われてしまい、のちのちまでそのことを悔やんでいたと言われています。
乃木は一時期かなりの放蕩癖があったと言われていますが、弟を失ったこと、西南戦争で連隊旗を奪われたことが原因であったと言われています。
小倉にいた頃は結構つらい時期を送っていたのかもしれませんね・・・。
関連記事 → 小倉城に残る軍施設の正門跡
【参考サイト】
・Wikipedia 乃木希典