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大濠公園の堀が昔どの位置まで広がっていたかを古地図で推測してみる

福岡市の大濠公園の湖はもともとは福岡城の外堀として使用されていましたが、昭和2年に東亜勧業博覧会を開催するために堀の一部を埋め立てて現在の形に整備されました。

では、埋め立て前の堀はどの位置まで広がっていたのでしょうか?

古地図を元に特定してみたいと思います。

▲ 特に、西側の大濠、草香江地域周辺を中心に調べてみたいと思います。(※ 地図は「古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み」【海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編】より引用)

▲ 古地図を確認する場合にはお寺の位置を照らし合わせながら見てみるとわかりやすいです。

大濠公園の北東部分に善龍寺というお寺が書かれています。

▲ 現在の地図を確認してみると、同じぐらいの位置にありました。

▲ そして古地図のこの道筋。

▲ これもほぼそのまま残っていますね。

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▲ さらにこの緩やかにカーブした道筋。

▲ こちらもそのまま残っています。

▲ 古地図を見ると、この道は川とクロスしていたようで、橋が架けられていたようです。

▲ 現在の地図で言うとこの位置。

▲ 実際に行ってみました。

▲ 手前側の大きな通りがもともとは川だったようです。

▲ このような感じで橋がかかっていたようです。

▲ よくよく確認してみると、ここに橋があったことを示す石碑が建てられていました。

やな橋という橋があったようですね。

▲ そして、やな橋から川を大濠方面に上っていくと三角形の土地があります。

▲ これとピッタリ同じ形をした土地が「南当仁小学校入口」の交差点部分にあります。

上記で確認したことをひっくるめて考えてみると・・・

▲ おそらくこのラインがもともとの堀のラインではないかと思われます。

確かに、このラインだけはきれいに結びつけることができますね。

しかも他の道筋とは異なる半円形をしていて不自然に思えます。


大きな地図で見る

▲ ストリートビューで見てみるとこの道沿いです。

左手に堀を見ながら歩くようなイメージです。

部分的に埋め立てられた場所もあった

▲ そして、大正頃の地図を見てみると、既に少しだけ埋め立てられている土地もあったようです。

▲ 位置的に判断すると、このような感じでベルクラシック福岡大濠の裏あたりなどは部分的に埋め立てられていたようです。

▲ そこで、ベルクラシックの裏辺りを調査してみると非常に興味深いものをみつけました。


大きな地図で見る

▲ ベルクラシックと日本気象協会九州支社の間あたりです。(緑色の矢印の部分)

▲ こちらの「江浦」と書かれた石柱。かなり古そうです。

建物に食い込む形で埋まっていました。

もともとは「江浦」という地名だったのかと思い、調査してみても どうも違うようです。

「江浦」さんという人の土地というわけでもなさそうです。

そこで、当ブログのfacebookページで何か知っている人がいないか聞いてみることにしました。

大濠のベルクラシック裏あたりで『江浦』と書かれた石柱を発見しました。

色々調べていますが今のところ謎です。

旧地名でも境界柱とかでもなさそうです。

これは一体何なのか気になって仕方ないです。。。

何かご存知の方いらっしゃいませんかー??

▲ このように質問を投げかけたところ、ある方が素晴らしい推理を書き込んでくれました。

私の考えから行けば「江浦」の石標は江の上に草香って文字があったのではないか?ゆえに草香江の港の意味じゃないかと思うのですがいかがでしょう?

つまり、こういうことです。

▲ 石柱の上半分が折れてしまっていて、実はこの周辺の地名、「草香江」に「浦」だったのではないかという推理です。

確かに、石柱の上部分はきれいに整っていなくて折れたような形をしています。

感動するほど素晴らしい推理だと思います。

この石柱が「草香江浦」だったとしたら、まさにこのラインまで堀があったことを示す証拠だといえます。

もしかしたら以前は船着場のようなものがあったりして「草香江浦」とよばれていたのかもしれませんね。

こうやってちょっとしたものから色々と推測して考えてみるのも楽しいものです。

【参考文献】
・古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み(海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編)

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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