【天神】殿様になるはずだった黒田綱之の墓がある少林寺
親不孝通り沿いにある少林寺には本来であれば殿様になるはずだった黒田綱之の墓があります。
[map addr=”福岡県福岡市中央区天神3丁目6-14″]
▲ 少林寺の場所はこちら。
▲ 親不孝通り沿いにこんなに立派なお寺があるとは知らなかったという人も多いかもしれません。
▲ お寺の案内板には下記のように書かれていました。
慶長九年(1604)福岡藩主黒田長政公によって約3000坪の広大な寺地に本堂・開山堂・観音堂・霊堂・子院として性雲院を建立、長誉恵順和尚を開山の僧とし、永長山昌林寺と号した。
徳川家康の養女、長政公夫人(栄姫)が江戸で没され、遺髪を当寺に埋葬し菩提所となり、山号も夫人の法名の大凉院からとって大凉山と改め、後に昌林寺も少林寺となる。
中興開山興誉上人の頃、福岡藩上席寺院として、触頭しょくとうという寺格を持っていた。
しかし昭和五年の火災、昭和二十年の福岡大空襲で共に建物一切の寺宝は焼失した。
さらに戦後の区画整理によって寺地縮小・墓地改葬、昭和二十八年から四ヵ年かけて本堂・山門・納骨堂・総檀家の墓を建立、平成十四年には、信徒会館・納骨堂を増改築した。
山内には、長政夫人の五輪塔・長政の二女の笠付角柱塔・綱之等の墓塔がある。
▲ お墓は非公開になっていますが、案内板に写真が掲載されていました。
ここに墓がある黒田綱之は福岡藩三代藩主 黒田光之の長男で、本来であれば四代目の藩主になるはずの人物でした。
しかし、突如 父である黒田光之から廃嫡(家督相続の候補から外されること)されてしまい、剃髪のうえ謹慎を命じられました。
この一件で藩政が乱れ、二代藩主 黒田忠之が引き起こした黒田騒動に次ぐ第二の黒田騒動とも呼ばれています。
綱之が廃嫡されたハッキリとした原因は不明だそうですが、一説によると綱之の酒癖の悪さと素行の悪さが原因だともいわれています。
綱之が謹慎を命じられた場所は謹慎した館があったということから「屋形原」という地名になっています。ちなみに館には花がたくさん植えられていたそうで、その場所は現在「花畑」という地名になっています。
▲ 綱之の墓の写真を見ると、墓石が非常に小さいです。
これは謹慎を命じられた過去が原因で小さく作られたというわけではなく、福岡市のホームページ「黒田長政夫人の墓などがある少林寺」によると、
綱之は死に臨み、「自分の願いは叶えられなかったが、私の墓に真心を込めて祈るならば、願い事を叶えてやる」と言い残して没したので、多くの人が綱之の墓に参詣して願い事をしました。
その際に人々は墓石を削り取って、舐めたり煎じたりしたため、現在の墓石の高さは元の高さの4分の1程度になっているといいます。
とのことです。
この墓石を削って飲んだり食べたりするという風習は色々なところでみられ、博多の龍宮寺にある人魚塚でも同じような例があります。
▲ 墓は非公開ですが長政夫人 栄姫の五輪塔は裏側の駐車場から一部を見ることができます。巨大です。
【参考サイト】
・Wikipedia黒田綱之