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上人橋通りはなぜ「橋」なのか?→殿様の囲碁好きがきっかけだった

大名から薬院へ抜ける「上人橋通り」。

▲ この近辺には橋どころか、川さえ見当たりません。

ではなぜこの通りは「上人橋通り」と「橋」がつくのでしょうか。

まずは1800年頃の古地図(古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み【海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編】)でこの場所を確認してみたいと思います。

▲ 上人橋通りはこちら。(地図は「古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み」【海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編】より引用)

▲ 上人橋通りの入口部分を見てみると、以前は国体道路が川だったことがわかります。

▲ そして「聖人橋」という橋が かかっていたようです。

なるほど「聖人橋」が「上人橋」になったのですね。

▲ 聖人橋があった場所はこの部分。

▲ このような感じで橋がかかっていたものと思われます。

大名紺屋町の通りから現在のブックオフあたりにかかっていたようです。

この橋がかけられた理由

この橋がかけられた理由がちょっとおもしろいです。

▲ 上人橋通りに「香正寺」というお寺があります。

ここに日延上人という人がいました。1600年代前半頃の話です。

▲ 当時の福岡藩の殿様、黒田忠之と日延上人は囲碁フレンドでした。(※日延上人が黒田忠之の囲碁の先生だったという説もあり)

日延上人は黒田忠之と囲碁を打つために度々お城へ通っていました。

しかし、ある日、現在の国体道路にあった川が増水していたために渡れず、お城へ行くことができないことがありました。

黒田忠之は日延上人と囲碁ができなかったことがよほど残念だったのでしょう。

今後 川が増水しても日延上人が囲碁をしにお城へ来れるようにするために、この川に橋をかけさせたのだそうです。

そんな囲碁LOVEな殿様のはからいが、後の上人橋通りの発展につながったのです。

▲ そして、実は今でもその橋の一部が日延上人が開山した香正寺に残されています。

お寺に入って右側の部分に・・・

▲ 「上人橋」と書かれた橋柱がひっそりと残されています。

もしも殿様が囲碁に興味がなかったとしたら、上人橋通りは現在のように活気のある通りに発展していなかったのかもしれませんね。

【参考文献】
・香正寺案内看板
・古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み(海鳥社 宮崎 克則、福岡アーカイブ研究会 編)

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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