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戦国末期、福岡に女性の殿様がいた!

戦国末期、現在の新宮町にかつてあった立花城に立花誾千代(たちばなぎんちよ)という女性の城主がいました。


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▲ 立花城のある立花山

誾千代の父、立花道雪は 当時 九州で大きな力を持っていた大友氏に仕える重臣でした。

道雪には跡継ぎの男子が生まれず、ついに60歳を超えてしまったので、7歳であった女子の誾千代に家督を譲ることにしました。

まだ幼い子供ですので、もちろん後見人はいたのでしょうが、当時としては異例のことだったそうです。

その後、誾千代が13歳のときに、大友氏の家臣であった高橋紹運の子、宗茂を婿に迎えました。

Wikipediaの立花誾千代には

御本丸西の城における御旗・御名字の御祝をもって始めて立花姓を名乗る。

と書かれていました。

誾千代は宗茂を婿に迎えたことで城主から正室となったのですが、6年間は異例の女城主となったのでした。


▲ 現在、立花城の城郭はわずかに石垣と井戸を残すのみとなっているようです。

それでもいいので見に行ってみようかと思いましたが、ガッツリ登山になりそうでしたので登山口で引き返しました・・・。


▲ 登り口にあったパンフレットに少し写真が載っていました。


▲ こんな感じの井戸と、


▲ こんな石垣が残っているそうです。にしても、立花城・・・すごい山の中にあります。

当時は途中途中に櫓(やぐら)などがあったのでしょうけれど、家臣たちは大変だったでしょうね・・・。

ちなみに福岡城を築城するときにはこの立花城跡の石垣も持って行って使ったそうです。


▲ 本丸があった頂上までは50分かかるそうです。


▲ 登山道手前の立花口集落には昔ならではの町並みが残っています。古い石垣がたくさんあり、かつての繁栄を思わせます。


▲ 立花口集落に梅岳寺というお寺がありますが、ここには誾千代の父、道雪のお墓があります。


▲ 梅岳寺本殿。


▲ 本殿左手の狭い通路を奥に行くと道雪のお墓があります。


▲ 右側の墓石が道雪のものだそうです。

誾千代が宗茂と結婚した4年後に父道雪は戦で亡くなっています。その数年前には本家の大友氏も戦で負け、夫 宗茂の父も戦で亡くなっています。

その後、豊臣秀吉が九州を平定したときに、秀吉が宗茂を気に入り、柳川13万石を与えました。

そこで、立花城から柳川に移ることになったのですが、誾千代は父の墓があるので行きたくないと拒んだそうです。

宗茂と不仲だったので拒んだという説もあります。

誾千代は後に立花城を出ることになるのですが、結局は柳川で宗茂と一緒に住むことはなかったそうです。


▲ 立花家が戦に出る際に必ず参ったと言われる、立花口にある六所神社

その後、関ヶ原の戦いで立花家は西軍(豊臣温故の石田三成方)について参戦しました。そのときに誾千代も鎧を身につけて合戦に参加したそうです。しかし、徳川家康率いる東軍に破れ、立花家は改易(取り潰し)になっています。

そのショックからか、直後に誾千代は病死しています。34歳だったそうです。その数年後、立花家は柳川城主に奇跡の復活を遂げていますが、誾千代はそれを目にすることなく逝ってしまいました。

あまり知られていない人物かもしれませんが、実はすごい人が福岡にいたんですね。

ちなみに、とても色白の美人だったらしく、豊臣秀吉が必死になって口説いていたという逸話もあるそうです。

【参考文献】
Wikipedia立花誾千代
わずか7歳で女城主となった立花誾千代|今日は何の日?徒然日記

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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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