【長崎】坂本龍馬も度々参拝した?「勤王稲荷」の別名を持つ若宮稲荷神社
長崎市の伊良林に「勤王稲荷」の別名を持つ若宮稲荷神社があります。
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▲ 場所はこちらです。亀山社中のすぐ近くに位置しています。
▲ 境内は意外と広く、岩や石垣が全体的に苔むしていて神聖な雰囲気です。
▲ ジブリ映画のモデルになった場所と言われると信じてしまいそう。
▲ 案内看板にはこう書かれていました。
延宝元年(1673)、出来大工町の乙名・若杉喜三太が開創。伊良林郷の鎮守の神として崇敬を集め、“若宮様”と親しまれるようになりました。明治元年(1868)、社号を伊良林稲荷神社と改称し、明治29年(1896)、境内の大改修等を行い、現在の神域を創成しました。秋の祭り(10月14・15日)に奉納される行事“竹ン芸”は有名で、男狐・女狐の面をつけた若者が高さ10m余りの2本の青竹の上で曲芸を行います。神社の使いである男狐と女狐が若宮神社の御神徳をよろこんで裏の竹薮で遊ぶ姿を模したものといわれています。
▲ そして境内には坂本龍馬の像があります。
▲ 像の側面にこう書かれていました。
慶応元年(1865年)幕末の風雲児坂本龍馬は、伊良林・亀山に日本最初のカンパニー「亀山社中」を創設した。亀山社中は、商業活動のかたわら倒幕運動にかかわり維新回天の事業を推しすすめ、日本の近代化に大きな役割を果たした。この銅像は、風頭山頂に立つ坂本龍馬之像の原型であり、龍馬ゆかりの地・亀山社中の一層の発展を願って制作者山崎和國氏から寄贈されたものである。題字は、山崎和國氏書。
▲ そして横にあった案内看板には
若宮稲荷神社は「勤皇稲荷」とも呼ばれています。これは、当稲荷が南北朝の武将・楠木正成(1336没)の守護神であったことにちなみ、幕末に来崎した諸藩の志士が多く参詣したためと言われています。幕末当時、頼山陽の『日本外史』等の影響により、楠木正成の人気が高まり、勤皇の志士たちの厚い尊敬を集めていました。坂本龍馬(1835~1867)も正成を崇拝していたらしく、正成の最期の地である神戸・湊川では「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」という歌を詠んでいます。また、今も残る写真には、正成所持の刀を模して作らせたと言われる脇差を、腰に差した姿でおさまっています。若宮稲荷神社は、龍馬の創設した亀山社中や、盟友・佐々木三四郎と会飲した料亭・藤屋にも近いことから、たびたび参詣して、日本の維新回天が一日も早く成就する事を祈っていたのではないでしょうか。
と書かれていました。
▲ 龍馬のこの脇差しはこの神社にゆかりのある楠木正成のものを模していたのですね!
ということは おそらく龍馬もここに度々来ていたことでしょうね。
▲ あと若宮稲荷神社で珍しいものがこちらの鳥居です。
▲ なんと、この鳥居、柱の形が四角形です。
▲ もともとは長崎奉行所内の稲荷神社にあったものを明治時代に移設したのだそうです。