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佐賀城本丸歴史館で幕末の佐賀藩についてみっちり学んできた

佐賀城本丸歴史館で幕末の佐賀藩についてみっちり学んできました。佐賀、スゴイ!IMG 3461
▲ 佐賀にやって来ました。

なんでも、佐賀市の中心にある『佐賀城本丸歴史館』が無料で入れるらしく、しかも無料とは思えないほどのクオリティの高さだと聞きつけ行ってみることにしました。

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▲ 佐賀駅からバス+徒歩で15分ほどで佐賀城にたどり着きます。

めちゃめちゃ立派な門だな〜!

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▲ 門から奥に進むと佐賀城の本丸御殿を復元した本丸歴史館があります。

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▲ 中に入ると・・・確かにこれホントに無料でイイの?というほどのクオリティの高さ。

それもあってか、けっこう多くの人でにぎわっています。

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▲ 佐賀藩は明治維新の中心となった薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の四藩のひとつで、幕末期には軍艦や大砲を作り出す科学分野で国内トップクラスの技術を持っていた藩だそうです。

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▲ 幕末期に大きな功績を残した中心人物が「佐賀の七賢人」と言われる鍋島直正、佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信の7人。

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▲ その中でもリーダーとなったのは、やっぱり、佐賀藩の第十代藩主・鍋島直正です。

かなり型破りな人物だったようで、他藩にさきがけて西洋技術開発に注力したり、自ら外国船に乗り込んで視察したり、さらには本来では死罪にもなりかねない脱藩した人物でも能力があると見込んだら重要な役目につかせたり・・・。

そういった姿勢が幕末佐賀藩の活躍につながっていったようです。

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佐賀藩は幕末期には財政難に陥っていました。

そんな中でフェートン号事件が起きてしまいます。

これは簡単に言うとイギリスの軍艦がオランダ船を装って長崎港にやってきて日本にいたオランダ人を人質に物資を要求した事件です。

この事件によって軍備の拡充の必要性を痛感した佐賀藩は長崎の警備を強化しました。

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さらに運が悪いことにシーボルト台風が発生して大きな損害を受けてしまいます。

そんな状況を改善するために17才で佐賀藩藩主となった鍋島直正は質素倹約を含む藩政の改革に取り組みました。

鍋島直正は自らの衣服を木綿に変えたり、一汁一菜を徹底などなど・・・もちろんそれだけでは全然足りないので、米の販売だけでなく有田焼やろうそくを売るなど経営多角化にも取り組み財政改革を行いました。

いっぽうで大幅な人員削減、報酬のカット、さらには商人から借りていた借金を8割なかったことにさせ、残りの2割も100年ぐらいに分割して返済するという半ば強引な手法で債務整理を行っていきました。

かなりムチャな方法ですがそれぐらい切羽詰まった状況だったのでしょうね・・・。

鍋島直正は商人たちからは「ソロバン大名」と揶揄されることもあったのだとか。

そうやって財政を安定させ、さらに捻出した費用を西洋技術の導入につぎ込み、長崎警備のための軍備増強に注力しました。

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「精煉方」という今でいう理化学研究所のようなものを作って蒸気機関の開発などを行い、ついには国内で初の実用的な蒸気船「凌風丸」を造れるまでになりました。

また、三重津海軍所(参考→見えないのに世界遺産になってしまった佐賀県の三重津海軍所跡を見に行ってみた)を創設し、西洋船の操舵から修理までを一貫して行えるようにもなりました。

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これは今に例えるならば地方の一県が独自で宇宙ロケットを開発したのと同じぐらいの快挙だったと言えるのだとか。

その後も鉄製大砲の鋳造など日本の歴史を動かすほどのものを佐賀藩はどんどん作り出していくことになります。

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こうやって見てみると、佐賀、めちゃめちゃスゴイな!

実はわたくし佐賀県出身でありながらあまりこういったことを知りませんでした・・・。

次回の佐賀の記事では佐賀城のみどころを紹介していきたいと思います。これまた知らないことだらけで面白かったです。お楽しみに!

三重津海軍所跡特設サイト
http://mietsu-sekaiisan.jp/

提供:佐賀県

Y氏(山田全自動)
ふるほん住吉店主:Y氏(山田全自動)
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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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