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【邪馬台国はどこにあった?!】魏志倭人伝を小学生でもわかるように解説 1/2

邪馬台国(やまたいこく)がどこにあったかということは長〜いこと議論されています。

現在、北部九州説と畿内説(近畿地方説)が有力ですが、その論争のもとになっているのが魏志倭人伝(ぎしわじんでん)での邪馬台国についての文章です。

そもそも魏志倭人伝とはどんなもの??

「魏志(ぎし)」とは中国にあった魏(ぎ)という国の歴史書のことです。

「倭人(わじん)」とは倭(わ)の国の人、つまり昔の日本人です。

簡単に言うと「魏の歴史書にある日本人についての記録」ということです。

ここで単純な疑問・・・なんで外国の人が書いた歴史書を頼るのでしょうか?倭(日本)の人が自分で書いたものを見れば一番正確なのでは??と思ってしまいますよね。

答えは簡単です。当時、倭(日本)には文字が無かったのです・・・泣 それなので、外国の記録を頼りにするしかないんですね。

魏志倭人伝という書物があるわけではない

魏志倭人伝という書物があるのかと思ってしまいますが、実はそうではありません。

魏志倭人伝は「三国志」の中の「魏書」の さらにその中の第三十巻「烏丸・鮮卑・東夷伝」に書かれている「倭人条」の呼び名です。

↓ 図にするとこんな感じです。

つまり、魏志倭人伝は三国志のほんの一部に書かれた文章のことなのです。

文字数は約2000字程度しかありません。

つまり、倭(日本)のことだけを一生懸命に調べて書かれたものではないのです。このことは魏志倭人伝を読む上で知っておかなければなりません。

いつ誰が書いたのか

三国志は3世紀末の280年〜290年代に書かれていますので、魏志倭人伝もその時期に書かれたものです。

陳寿という官僚が、実際に倭(日本)に行った人の話を聞き、それをまとめて記しています。

魏志倭人伝の中には「〇〇(当時中国にあった地名)に似ている」とか「(中国における)〇〇のような風習である」というような文章がいくつかあります。そのことから、魏(中国)側から来た人が見た倭(日本)の姿であると考えられます。なので、倭(日本)に対する偏見や先入観が入っているかもしれないということは十分に考えられます。

また、倭(日本)のこの部分を見てきて下さい、とか、移動した方角や距離を記録してきて下さい、という指示があった上で書かれたものではないと思われますので、魏志倭人伝に書かれていることは結構大さっぱで ざっくりしたものが多いです。

いつの時代の倭(日本)が書かれているのか

魏志倭人伝には「景初2年」などの年号が出てきます。これは西暦238年のことです。魏志倭人伝は280年〜290年代に書かれていますので、書かれたときから40〜50年ほど前の倭(日本)のことを書いています。かなり近い時代のことを書いていますので、そういう意味では信ぴょう性が高いのではないかと考えられています。

そのため、魏志倭人伝は邪馬台国研究で重要な材料として取り上げられているんですね。

当時の倭(日本)の状況

魏志倭人伝に書かれている時代の倭(日本)は↓こんな状況でした。


▲ 倭国という大きなくくりの中に、30ぐらいの国があると書かれています。今の県のような小さな単位で国があったんですね。

そして、その中に卑弥呼を女王とする邪馬台国がありました。一般に、卑弥呼が女王になる前までは争いがずっと続いていて、各国が卑弥呼こそが倭国の女王だと認めてからは争いがなくなったと言われています。

しかし、魏志倭人伝にははっきりと卑弥呼が女王になったことで争いがなくなったとは書かれておらず、「昔は争いが起きていた」というようなぼんやりとした表現でしか書かれていません。

魏志倭人伝には邪馬台国が、はるか遠くの魏に貢物(みつぎもの)を送り、これを喜んだ魏の皇帝は卑弥呼を倭(日本)の王だと認定する「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を送ったとも書かれています。わざわざ魏から称号をもらわなければいけない状況だったということは、やはり卑弥呼を女王とすることを不満に思う人たちがいて争いがおきていたのでしょうね。

ただ、魏志倭人伝には邪馬台国以外の国はどの国も「家が数千戸である」と書かれているのに、邪馬台国は「七万戸の家がある」と書かれていますので、かなり大きな力と権力を持った国であったことは間違いないようです。

では実際に書かれている邪馬台国までの道のりを見てみましょう。

邪馬台国までの道のり


魏志倭人伝には邪馬台国までの道のりが書かれています。〇〇国があって、その南側に〇〇国があって・・・・と順をおって書かれていて、その国ごとの特徴・どれぐらいの戸数の家があるかなども書かれています。

まず、倭(日本)は東南の大海の中にあり、山のような島であると書かれています。これはまさに日本の特徴ですね。

そして、倭(日本)に行くには「狗邪韓国(くやかんこく)」から海を渡ると書かれています。これは名前から判断して現在の韓国でしょうね。


▲ そこから南東に進むと千里ぐらいで「対馬国」に着くと書かれています。これはもちろん対馬ですね。

一里は約3.9kmなので、千里は3900kmになります。韓国から対馬までは100kmほどしかありませんので大きなズレがあります。魏志倭人伝では魏から倭(日本)への使者の感覚で距離を書いているものと思われますので距離はあまりあてになりません。

※ ただ、「陸路を◯◯日」というような書き方をしている所もあり、その場合はある程度参考にできると思われます。


▲ そして海を南に進むと「一支国(いきこく)」です。これは壱岐島で間違いないでしょう。


▲ さらに海を渡ると「末盧国(まつろこく、もしくは まつらこく)」です。これは佐賀県北部の松浦半島の周辺だと考えられています。


▲ 陸路を東南に進むと「伊都国(いとこく)」です。これは現在の福岡県糸島市周辺だと考えられています。糸島市ではたくさんの遺跡も見つかっています。


▲ そこからさらに東南に進むと「奴国(なこく)」です。これは現在の福岡県北部地方だと考えられています。春日市などでは3世紀頃の遺跡がたくさん見つかっています。また、「那の津」や「那珂川」など「な」という地名からもその可能性は高いと考えられています。


▲ そこから東に進むと「不弥国(ふみこく)」です。これは現在の福岡県宇美(うみ)町ではないかと考えられていますが、名前がちょっと似ていること以外の証拠はないようです。このあたりからだんだん あやしくなっていきます。


▲ 次の「投馬国(とうまこく)」で完全にわからなくなってしまいます。というのも、投馬国に行くには南に水路を20日進むと書かれているのです。

宇美町は内陸部にありますし、大きな川もありませんので「水路」とどうしても結びつかないのです。

もし強引に水路を20日進むとしたら、鹿児島よりはるか南の海の上ということになります。

で、結局邪馬台国はどこ・・・?

そして次がいよいよ邪馬台国なのですが、さらに謎な展開に!なんと、そこからさらに南に水路を十日、陸路を一ヶ月と書かれているのです!!

単純に水路を十日、陸路を一ヶ月すすむとしたら・・・


邪馬台国は沖縄?!

その2につづきます

【参考文献】
Wikipedia魏志倭人伝
魏志倭人伝|邪馬台国の会

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福岡で古本屋「ふるほん住吉」の店主をしつつ、ブロガー/イラストレーター/執筆業などをしながら自由気ままに暮らしています。著書:福岡路上遺産(海鳥社)、福岡穴場観光(書肆侃侃房)、山田全自動でござる(BOOKぴあ)など
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