【熊本】木村政彦の柔道無敗伝説
熊本の川尻町(熊本市南区川尻)は柔道無敗伝説を持つ木村政彦の出身地です。
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▲ 川尻の場所はこちら。
木村政彦は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われるほどの人物で、最近では「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本で知名度が上がりました。
▲ 木村は幼少期から父親の仕事である嘉瀬川の砂利取りを手伝わされていたそうです。
▲ 川の砂利取りは過酷なもので彼の強靭な肉体作りの基礎になったと言われています。
▲ 川尻の木村政彦が通った道場跡。
10歳から柔道を始め、優秀な成績で勝ちまくり全国に名を知られていきました。
拓殖大学で柔道を教えていた牛島辰熊に見出されて拓殖大学へ。一日10時間の過酷な練習の結果、無敗を貫いたそうです。
もし負けたら腹を切ると決めていたそうで、切腹の練習をしてから試合に挑んでいたという逸話もあります。
その他にも学生時代のバンカラな逸話はたくさんありますが、ここでは書けないようなことばかりです。。。もう むちゃくちゃ。気になる方は調べてみてください。
その後、国際柔道協会(プロ柔道)を経てプロレスラーに転身。力道山とタッグを組みましたが、負け役をやらされていました。
そのことに不満があった木村は真剣勝負なら負けないとインタビューで語り、そのことを知った力道山が怒り直接対決をすることとなりました。
▲ こちらがその試合です。実は この試合もシナリオが決まっていて、お互いに勝ったり負けたりを繰り返しながら全国を巡業することになっていたと木村自身が晩年のインタビューで語っています。
しかし、動画の9分辺りから様子がおかしくなります。
突然 力道山が怒りだし、シナリオが決まっているとは思えないほどの猛攻にでます。完全に本気のケンカという感じ。最終的には木村がボコボコにされて負けてしまいます。
柔道では無敗を貫きましたが、さすがに不意打ちとも言えるケンカ殺法には対応できなかったようです。
なぜこうなってしまったのかは謎ですが、木村が急所攻撃をしたことに力道山が怒ってシナリオを無視したとか、いや、あれが本当のプロレスなんだとか、今でも議論は続けられています。
結局、再試合は無く力道山が木村に金を支払うことで和解しましたが、晩年 木村は妻の結核の薬を買うために和解に応じたと語っています。
その後は拓殖大学の柔道部の監督となり、指導者として生涯を終えました。
▲ 木村の墓は故郷熊本の大慈寺にあります。
実際にお墓参りをしてきましたが、とてもどっしりとした造りのお墓でした。
過剰なほどストイックに練習に打ち込んだり、むちゃくちゃな逸話があったり、でもインタビューを見てみると とても穏やかそうな人だったり。何か妙に気になる人物です。
【参考文献】
・Wikipedia木村政彦
【こぼればなし】
川尻は道が複雑に入り組んでいますので道場跡を探すのに苦労しました。住所としては熊本県熊本市南区川尻4丁目2−83、川尻小学校の正門の向かい側あたりです。