【福岡の絵葉書】西公園にかつてあった記念碑と銅像
福岡市中央区の西公園には平野國臣の銅像、母里太兵衛の銅像、黒田長政愛用の水牛の兜像などがありますが、かつては日清・日露役紀念碑、吉岡大佐銅像もありました。[map addr=”福岡県福岡市中央区西公園13−6”]
▲ 西公園の場所はこちら。
▲ 中央展望広場近に階段があります。
▲ 階段の脇に「加藤司書 記念碑」の案内板が設置されています。
案内板にはこう書かれていました。
福岡藩の中老職で勤王派。先祖の加藤重徳は、荒木村重のために地下牢に投じられた黒田官兵衛(如水)を救出した功で代々中老職に列せられる。
ロシア艦隊が開国を求め長崎に来航した時、藩兵五百余人を指揮し、同艦隊を無事国外に立ち去らせた。また、長州征伐の際、司書は黒田藩を代表し、薩摩の西郷と共に征伐の中止に尽力し、国内の混乱を収めた。
その後 藩論が勤王から佐幕へと変わり、慶応元年(1865年)10月乙丑の獄の大弾圧となり、切腹。享年36歳。
昭和四年、西公園に建てられた司書公の銅像。(戦時中に供出され、現在銅像はありません)
▲ 階段を登り、しばらく進むとこのような碑があります。
▲ 現在は銅像は無く、銅像が置かれていた台座のみが残されています。
台座には
皇御国の武士は
いかなる事をか勤むべき
ただ身にもてる赤心を
君と親とともに盡すまで
と刻まれています。
これは長州征伐を中止させた加藤司書がその喜びを表して作ったものであると言われています。この句は黒田節の2番として歌われる場合もあります。
▲ 加藤司書の碑と逆方向に進むと展望スペースがあります。
▲ 展望スペースの脇にはこのような碑がありました。
この地には、日清日露の両戦役記念碑及び吉岡友愛大佐の銅像がありましたが過ぎる太平洋戦争のおり金属回収のため碑文等がとり払われ台座のみが残っておりました。
このたび関係者各位のご理解とご協力を得て、園地として整備したものです。
昭和51年3月 福岡県
▲ 日清日露の記念碑は福岡の名所として知られていたようで、よくおみやげ用の絵葉書の題材として用いられています。
左にあるものが日清戦争の戦役記念碑で魚雷を模した形になっています。かつては福岡城内にあったものが後にこの場所に移されたそうです。
右にあるものが日露戦争の戦役記念碑です。
上記の写真には写っていませんが、日清戦争の戦役記念碑と日露戦争の戦役記念碑の間に吉岡友愛大佐の銅像がありました。
銅像はこちらの絵葉書コレクションのこちらの写真で見ることができます。
吉岡大佐は福岡出身の軍人で日露戦争の際に歩兵第三十三連隊長として戦い、奉天での戦いでロシア軍を退却させたという人物だそうです。
近代デジタルライブラリーの「吉岡大佐 : 忠孝義烈」でその詳細が見れるようです。
▲ この展望スペース付近の石畳はいびつな形を組み合わせたものになっていますが、もしかしたらこれらの記念碑や銅像の台座が使われたりしているのかもしれません。
▲ また、このような2本の碑もあります。
「鎮魂(ちんこん)義捐金(ぎえんきん)人名」と刻まれていますが、おそらくこれらの記念碑や銅像を作る際に資金を提供した人の名が刻まれているものかと思われます。
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