【イルマ殺し】大正時代、福岡市の住吉で起きたドイツ人捕虜夫人強盗殺人事件
大正時代、福岡市の住吉で起きたドイツ人捕虜夫人強盗殺人事件
大正3(1914)年11月15日午後3時、博多停車場の前には、黒山の人だかりができていた。
人々が、今か今かと到着を待っていたのは、ドイツ軍の捕虜である。
大正3(1914)年7月、第一次世界大戦が勃発した。
日英同盟を根拠として、同年8月23日に日本はドイツに宣戦布告し、ドイツがアジアに持つ根拠地の青島を攻撃した。
その結果、11月7日にドイツは降伏し、青島近辺にいた約4700名のドイツ軍の捕虜が日本の収容所へと送られることになった。
11月15日午後3時、その第一陣として約570名の捕虜が博多停車場に到着したのである。
↑博多駅に着いた捕虜(絵葉書・筆者所蔵)
捕虜が博多に到着する事を新聞で知った人々は、その姿を一目見ようと博多停車場に集まってきた。
人の群れは博多停車場から呉服町交差点まで到達するほどだったという。(※当時の博多停車場は、現在の博多駅から北西に約500mほど進んだ「商工会議所入口」交差点付近にあった。)
日本が勝利して連れて来た捕虜とはいえ、当時の日本は、軍事、医療、産業など、あらゆる分野においてドイツを模範としていたため、ドイツ人に対する扱いは非常に丁寧なものであったという。
もちろん、その時点では日本が属す連合国側が勝利するか、ドイツが属す中央同盟国が勝利するか分からなかったので、捕虜に対して下手なことはできないという側面もあった。
そのような事情から、ドイツ人捕虜は、ある意味で「お客様」として迎えられたのである。
捕虜は階級に応じて、須崎裏(現在の須崎公園付近)の赤十字社福岡支部跡と物産陳列場跡、そして、旧柳町遊郭跡(現在の下呉服町、大浜公民館付近)に収容された。
↑須崎裏、奥に見える洋風の建物が赤十字社福岡支部(絵葉書・筆者所蔵)
↑物産陳列場(明治43年『福岡県案内』より)
↑旧柳町遊郭(絵葉書・筆者所蔵)
捕虜に対する扱いが丁寧であったとはいえ、遠い異国での慣れない暮らしに耐えられず、捕虜収容施設から脱走を企てる者もいた。
ほとんどが未遂に終わったが、脱走に成功し、海外まで逃げた延びた捕虜もいた。
その脱走の手引きをしていたと疑惑をかけられたのが、ジークフリート・フォン・ザルデルン海軍大尉の妻イルマである。
イルマは日本の捕虜収容所にいる夫のザルデルンを追って、彼女が住んでいた北京から海を渡って博多にやってきていた。
現在の住吉4丁目付近の那珂川沿いにあった、元福岡県知事深野一三の旧別邸を借り、須崎裏の捕虜収容所にいる夫の元まで週一回通っていた。
博多の人々も、そんな健気な姿を好意的に思っており、地元の新聞では住吉から須崎裏の捕虜収容所まで通うイルマの姿を美談として報道したりしていた。
しかし、ドイツ人捕虜の脱走事件が発生すると、イルマの行動に不審な点があるとして、脱走を補助した容疑で家宅捜索まで行われ、夫への面会も禁止されてしまった。
イルマは頑なに否認したため、捕虜脱走の手引きをしたという容疑は晴れ、半年後には夫との面会も解禁となった。
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博多にドイツ兵の捕虜たちがやってきて2年数ヶ月経った、大正6(1917)年2月の事である。
イルマの屋敷から那珂川を挟んだ新柳町遊郭の旅人宿橋本屋に田中徳一の姿があった。
徳一は佐賀出身の貧しいパン職工で、小倉市鳥町のパン屋に勤めた後、今は福岡市簀子町のパン屋で配達の仕事をしていた。
当時26歳であった。
複雑な家庭環境で育ち、幼少期から「ねじけ者(反抗的な人間)」だったという。
窃盗の前科もあった。
徳一は新柳町遊郭に足繁く通っており、大福楼という見世の娼妓、子米を贔屓にしていた。
↑新柳町遊郭(絵葉書・筆者所蔵)
しかし、今回、徳一が新柳町遊郭にやってきた目的は子米に会う事ではなかった。
徳一は、とにかく金に窮していた。
身なりもみすぼらしい木綿の作業着だった。
そこで徳一は、橋本屋から川向こうに建つイルマの屋敷に強盗に入ろうと思い立ち、様子を伺っていたのである。
徳一は3日ほど橋本屋に滞在し、度々外出してはイルマの屋敷の下調べに向かった。
徳一がどこでイルマを知ったのかは分からない。
イルマが住吉の屋敷から洲崎裏の捕虜収容所にいる夫の元に通っていた事は新聞でも度々報じられていたので、徳一は長い間ずっと、「機会」を狙っていたのかもしれない。
そして、大正6(1917)年2月24日午後9時頃の事である。
田中徳一は、かねてから考えていた強盗計画を実行に移す事にした。
この日は異常な寒さが博多を覆っていた。
徳一は寒空の下、イルマの屋敷の庭にあった松の植え込みに身を潜め、じっと機会を伺っていた。
イルマは翌日に久留米在住のドイツ人俘虜の妻を訪問する予定だった為、子供を寝かしつけ、自身も午後11時には床に着いた。
電燈が消え、中の人が寝静まった事を確認した徳一は、土間の雨戸を外して中に侵入した。
徳一が応接間からイルマの寝ている寝室に入ろうとした時だった。
何やら物音がする事に気付いたイルマは、電気スタンドを点け、周囲を警戒しだした。
そして、電気スタンドのコードを引っ張り、寝室の隣の応接間を覗き込んだ。
すると、そこには見覚えのない男が身を潜ませていたのである。
イルマは大声で「誰?」と尋ねた。
突然の出来事にたじろいたのは、むしろ徳一の方であった。
身長156cmで痩せた体つきの徳一は、背の高いイルマを見て逆に怯んでしまい、逃げ腰になった。
イルマは今にも飛び掛からんとする勢いで、大きな声を上げている。
それでも、徳一は目的を達成しようと、「金を出せ」とイルマに迫った。
しかし、イルマは応じようとしない。
それどころか、イルマは徳一を押し倒し、馬乗りの状態になり、首を思い切り締めつけてきた。
押さえ込まれた徳一は、もがきながらも、懐に忍ばせていた匕首(短刀)に手を掛け、下からイルマの顔面に向けて突き上げた。
匕首は右目の下に突き刺さり、イルマは悲鳴を上げて仰向けに倒れた。
徳一は、さらにイルマの首や胸にも匕首を続けざまに突き立てた。
白い寝間着は鮮血に染まり、見るも無惨な姿になっていた。
今度は徳一が馬乗りとなり、イルマの首を渾身の力で締め付けた。
そして、念のために、電気スタンドのコードを使ってイルマの首をしばらく締め続けた。
イルマが完全に動かなくなった事を確認した徳一は、寝室の机の上にあった黒い革製の鞄を奪い、裏庭から逃走した。
この鞄にはプラチナの時計、真珠の指輪、現金100円入りの財布が入っていた。
徳一はイルマの屋敷の横を流れる那珂川で血を洗い流し、血痕の付いた服は新聞紙に包んで隠した。
そして箕島橋を渡り、橋本屋の部屋に戻った。
イルマと格闘した際に右腕を負傷していた事に気づき、包帯を巻いた。
犯行に使った匕首は橋本屋の二階から那珂川に投げ捨てた。
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イルマの屋敷の離れには、使用人の歌三郎と、その妻テルが住んでいた。
テルは朝5時になると、母屋の暖炉に火を入れる事になっていた。
いつものように母屋に向かうと、その日は珍しく応接室の灯りがついたままだった。
イルマは浪費家で、毎月、常識はずれの生活費を使っていた。
その割に、電力などの細かい金には口うるさく、雇い人や出入り商人を困らせる事があった。
応接室の灯りがついたままになっているだけではなく、部屋にも取り乱した様子がある。
テルは寝室に入ったが、そこにイルマの姿は無かった。
そして、応接室に入り、驚愕の光景を目の当たりにした。
そこには、半裸体で血に染まり、惨殺されたイルマが横たわっていたのである。
テルは急いで離れに引き返し、夫の歌三郎にその事を伝えた。
駆けつけた歌三郎も、あまりに惨たらしいイルマの変わり果てた姿を見て、ただただ震えるのみであった。
急報を受けた福岡県警察は、直ちに捜査を開始した。
イルマは海軍大尉の妻であると共に、当時の海軍大臣の娘でもあった。
敵国の軍関係者の家族とはいえ、国家間問題に発展しかねなかった。
政府からも早急な事件解決を要請された。
警察は現場検証と共に、市内の旅館や料理屋などを、しらみつぶしに捜査に当たった。
すると、犯行のあった2月24日前後に、近くの旅人宿『橋本屋』に不審な人物が宿泊していた事が分かった。
その人物は宿帳に「小倉市鳥町在住洋服商岡崎富次」と記していた。
岡崎富次は宿泊中に度々外出していたとの事である。
そこで、小倉市鳥町に岡崎富次という人物が住んでいるか照会したところ、該当者が無く、偽名であると判明した。
そこから、「岡崎富次」が捜査の対象となった。
犯行現場からは「はばき」が発見されていた。
はばきとは、刀の刀身と鍔が接する部分にはめ込む筒状の金具である。
はばきを仔細に調べると、細かい傷がついている事が分かった。
この傷は比較的新しい物で、ここ最近、刀を研いだ際にできたものではないかと推測された。
今度は、市内の刃物の研ぎ屋をしらみつぶしに調査した。
すると赤間町(現在の博多区冷泉町付近)の研ぎ屋に心当たりのある職人が見つかった。
事件前日、研ぎ屋の元に匕首を研いでほしいという男が現れたという。
匕首が錆びついていた為、刃が外れず、金槌で叩いて外したので、はばきに傷ができたとの証言が得られた。
匕首を持ち込んだ人物は30歳前後で身長155cmほどであったという。
これは「岡崎富次」が宿泊していた橋本屋の証言とも一致していた。
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イルマの夫、ザルデルン海軍大尉は、妻が惨殺されて以来、強度の鬱状態になっていた。
食事を摂ることができず、一日中、放心状態であった。
そして、3月1日午前7時、自室の扉の蝶番に電燈線を掛けて縊死しているのが発見された。
丁寧に畳まれた軍服の上には、帯剣と遺書が並べられていた。
遺書には、ザルデルンとイルマは、どちらかが死んだら残りのもう一人も後を追って死ぬ約束をしていたので命を絶つ、といった内容が記されていた。
ザルデルンとイルマは同じ窯で荼毘に付され、同じ骨壷に納められた。
イルマの惨殺に加えて、夫である海軍大尉の自殺という事態に、事件の捜査はさらに急ピッチで進められた。
捜査を進めるうちに、事件後の「岡崎富次」の動きが鮮明になってきた。
犯行現場の川向かいにある新柳町遊郭の大福楼に聞き込みを行った所、事件の翌日、「岡崎富次」が登楼していた事が分かった。
「岡崎富次」は以前から大福楼に通っており、子米という娼妓を贔屓にしていた。
子米に事情を聞くと、その日は右腕に包帯を巻き、外国製の高級な腕時計を身につけていたという。
「遠くへ行くのでしばらく会えない」とも話していた。
さらに数日後、子米の元に「岡崎富次」から手紙が届いたとの報告があった。
「津屋崎より」と記されていたので、警察は津屋崎の旅館を徹底的に捜査した。
すると、「岡崎富次」は中徳旅館という宿に宿泊していた事が分かったが、既に旅館からは姿を消していた。
近くの質屋からはイルマの所持品だった時計が発見された。
さらに驚くことに「岡崎富次」は写真館でイルマの時計を持って記念撮影まで行っていた。
この事件については報道規制が敷かれていたので、しばらくの間、新聞でも報じられていなかった。
大規模な捜査が行われているとは知らず、「岡崎富次」は意外なほど大胆な行動を取っていたのである。
この写真を照会した所、「岡崎富次」は佐賀生まれの田中徳一であると身元が割れた。
田中徳一を追った所、福岡市のパン屋を辞め、以前勤めていた小倉市鳥町のパン工場岡城至平商店に出戻りで働いている事が突き止められた。
警察は小倉へ向かい、徳一の身柄を押さえた。
徳一の部屋からはイルマの鞄や指輪などが見つかり、4月8日0時15分に逮捕となった。
裁判の結果、田中徳一は死刑が確定した。
大正7(1918)年3月11日、長崎刑務所にて絞首刑が執行された。
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戦争が長期化すると、須崎裏と旧柳町遊郭に収容されていたドイツ人捕虜は久留米俘虜収容所や徳島の板東俘虜収容所に集約されていった。
その後、大正8年(1919)6月28日に連合国とドイツとの間でベルサイユ講和条約が調印され、ようやく戦争が終結となった。
これにより、収容所のドイツ人捕虜は解放される事となり、それぞれの故郷へ帰って行った。
別れの際、久留米の陸軍第十八師団長代理は、捕虜達に次のような言葉を述べたという。
「世界大戦は五年以上も続き、ようやく終わりました。皆さんも帰郷なさるわけで、私も非常に感激し大きな喜びを感じています。日本には次のような諺があります。『雨降って、地固まる』。日本はドイツと戦争をしました。昨日の敵は今日の友であります。今より世界を発展させるためには、ドイツと日本はともに歩まなければなりません。最後に皆さんに申し上げたいことは、日本の軍と国民の代表として、勇敢なるドイツの軍と国民に将来の発展をお祈りするということです。」(「フィッシャー回想録」生熊文訳)
その後、世界は第二次大戦へと突き進む。
戦争を進める上で、本当に「友」となった日本とドイツが、どのような結末を迎えたかは周知の通りである。
ドイツ人捕虜の中には、故郷へ帰らず、そのまま日本に残る事を選んだ者もいた。
ユーハイム(製菓)、ローマイヤ(ハムやソーセージなどの製造)、フロインドリーブ(パン)などは日本に残ったドイツ人によって創業された企業で、現在でも事業が続けられている。
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【関連項目】
【参考文献】
福岡県警察本部編(1980).『福岡県警察史』.福岡県警察本部.
【参考サイト】
ウィキペディア フリー百科事典「イルマ殺し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/イルマ殺し
「寝巻ははだけ短刀で突き刺された惨状は…」《新聞掲載差し止め》襲われた国際的大物の令嬢と“酷すぎる現場” 大戦の陰で起きた悲劇の「イルマ殺し」#1
https://bunshun.jp/articles/-/51825
「ドイツさんと久留米」(久留米俘虜収容所のエピソード)| 久留米市公式サイト
https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3030shuuzoukan/2019-1024-1155-280.html
https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3030shuuzoukan/files/hatikai.pdf